国際部の歴史・第2回 国際「部」の登場

国際部

外部団体の構成員としての活動

前回は、1972年までを追いましたが、翌1973年の活動方針から他団体を通しての国際交流が明記され始めます。その対象が「児童図書日本センター」という団体です(『戦後児童文学の証言~創立75周年記念資料集』以下のページ数も同書より。104頁)。1974年に児童図書日本センターを発展的解消し、現在のJBBY(日本国際児童図書評議会)が設立されることになります(パンフレット「JBBYごあんない」1994年発行などを参照)。

〈72年度以来、「児童図書センター」(わが会が他団体と共に加盟している国際組織の日本支部で、二年に一回、国際アンデルセン賞の候補作品を日本の作品から選出するのが主な仕事)の改組問題が日程にのぼっており、この、児童文学の国際交流の組織を支えるために、財政問題を中心とした「日本センター」の再編と発展のために協力しつつある。〉

「児童図書センター」と最初にあり、後段で「日本センター」と記載していますが、いずれも誤植で「児童図書日本センター」の方が正しいのだと思います。もしかしたらいずれも略称として「児童図書センター」や「日本センター」といっていたのかもしれません。

ここで少し脱線してこの「児童図書日本センター」発足から「日本国際児童図書評議会」(JBBY)設立までの流れを追っておきたいと思います。というのも日本児童文学者協会も大いにかかわっていたからです。「児童図書日本センター」は、1958年10月27日に発足しています。この発足までの経緯については、『図書館雑誌』1958年12月号(日本図書館協会)の記事「児童図書日本センター発足」に次のように書かれています。

〈スイスに本部を置く、青少年図書国際協議会(International Board on Books for Young People)は日本図書館協会児童図書館部長に宛てた1957年12月17日付書簡により、日本を代表として国際支部になるよう勧誘してきた。/同協議会は、1951年にスイス民法において成立したもので(中略)国際青少年図書館の設立と青少年図書国際ハンス・クリスチャン・アンデルセン賞の設定を打ち出している。勧誘を受けた協会としては、広く国内の関係団体に諮るべきであると考え(中略)検討した結果、国際機関に参加するのには、まだ国内体制が整っていないので、この機会にまず、従来国内で相互に連絡なく活動してきた、児童・青少年の著作・出版・利用など諸団体の連絡を緊密にし、相互理解を務め、協力してよい児童図書の普及に努力すべきという結論に達し、このセンター設立となった。〉

IBBYの訳語を現在の「児童図書評議会」ではなく「青少年図書協議会」としています。そして図書館協会は、他団体に呼びかけて日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、日本童画会、全国学校図書館協議会、日本雑誌協会、日本児童雑誌編集者会、日本書籍出版協会、日本児童図書出版協会の9団体を発起人として、東京都立日比谷図書館で創立総会を開かれました。この記事の最後には「適当な時期に国際協議会に加入し、アンデルセン賞に候補作を送ることになっている。」と記載されています。なお、児文協からは当時の会長であった詩人・児童文学作家の与田凖一(福岡県出身、1905年6月25日~1997年2月3日)が常任世話人として就任しています。つまり「児童図書日本センター」には発足当初からの団体会員でした。その後、青少年図書協議会に加入してアンデルセン賞の候補作を選考していたようです。

そして一層の強力な組織に改編すべき日本図書館協会、日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、日本書籍出版協会児童図書部会、日本児童図書出版協会の5団体によって日本児童図書評議会(Japanese Bord on Books for Young People、略称JBBY)の発起人会が開催され、1974年11月13日に創立総会を迎えてJBBYが発足したわけなのです。初代会長は、平凡社社長の下中邦彦(兵庫県出身、1925年1月13日~2002年6月6日)が就任。児文協からはフランス児童文学者の塚原亮一(東京都出身、1920年5月15日~1993年4月24日)が13人の理事のひとりとして就任しています。なおJBBY会報1号には、「児童図書日本センター」ではなく「日本児童図書センター」を発展的に改組したと書かれていました。1972年に渡辺茂男氏がオブザーバー資格でIBBY大会に参加し、センターを発展的に改組する動きがでたとあり、前記、協会の活動報告の「72年度以来」と符合しています。詳しくはわかりませんが、任意団体から社団法人化して供託金を支出できる団体にしようとしたのではないでしょうか。ともあれ、JBBYでは、来年の50周年を記念して50年史を企画しているそうなので、詳しい経緯はそちらで明らかになるでしょう。(この項は、『JBBY』会報第1号、1975年4月10日などを参照いたしました。)

画像は、『図書館雑誌』1958年12月号の「児童図書日本センター」発足記事

 

再び1973年の活動方針に戻り協会の国際活動に関する記述を見ていくと、〈韓国の児童文学者キム・ヨーサム氏迎えて「日本児童文学」誌上で両国の児童文学について語りあった。〉とありました。ちなみに『日本児童文学』1973年4月号に「<座談会>金耀燮氏を迎えて」とあり上笙一郎、砂田弘との鼎談が掲載されています。この金耀燮(詩人・児童文学作家、1926年~1997年)が、キム・ヨーサム氏のことなのでしょう(日本児童文学学会編『児童文学辞典』では「キムヨソブ」で項目がたてられている)。本誌のこの鼎談のほうでは、呼び名は記載されていません。

国際交流についてもう少し拾っていきますと1977‐78年度活動方針は「会員の文学創造の活発化を中心にすえよう」というサブタイトル付きの活動方針で、「活動方針の具体案」として次のように記載されています。

〈児童文学の国際交流を進めることも、会創立以来の方針だが、私たちは欧米やソ連の児童文学ついて知るわりあいには、アジア、アフリカ、南米諸国などの児童文学についての情報に、一部の研究者を除いて暗いといえよう。これを埋めるための国内外の研究家や、それらの国々の児童文学者の話をきく会などを開き、両機関誌に反映していく必要がある。そのたには、他団体との協力も行っていく。〉(139頁)

いずれも文書にも「他団体との協力」という文言があるように、会の国際交流の活動はJBBYなど他団体に役員派遣という形でおざなりに続けられていたようで協会自体がおこなう活動はなされていなかったようです。その証拠に『75周年資料集』巻末の「役員名簿」や「会員名簿」に見られるように国際部担当一人、あるいは国際部がない時期が1986‐87年度まで続くことにも現れています。ちなみに児童図書日本センター創立時から日本国際児童図書評議会(JBBY)改組創立以来と団体会員として役員を派遣していたわけですが、2000年代初頭からの協会の財政難がきっかけとなり、加入団体の整理をせざるを得なくなり、JBBYへの団体会員も2009年度で終了することになったのでした。

「国際」担当から国際「部」登場まで

『75周年資料集』巻末付録の「歴代役員名簿」(14~20頁)は、創立の1946年から収録されていますが、はじめて「国際」担当(国際部でない)という記載が登場するのが、1961年度から1963年度にかけての福井研介(ロシア児童文学者・岡山県出身、1908年11月1日~2000年1月17日)からになります。ただし1963年度だけ「国際委員会」と記載されています。それが1964年度と1965年度には「国際」担当は記載されず、1966年度からは当時の会長であった小出省吾(児童文学作家・静岡県三島出身、1897年1月5日~1990年10月8日)に「国際」担当と記載されます。小出氏は『日本児童文学』1991年4月号掲載の「小出省吾追悼」の年譜(望月正子作成)によれば、1962年のカイロと1969年の北京で開催されたアジア・アフリカ作家会議に参加しているので、1960年度の活動方針「アジア・アフリカ作家会議に協力する」(62頁)と関係があったのかもしれません。ただ小出氏は1971年度まで会長職にあったのですが、1970‐71年度(1968年度より現行制度の任期が2年となる)には「国際」担当の記載がなくなっています。

次に「国際」担当が現れるのが、それから十数年後の1984年‐85年度の鳥越信(児童文学研究者・兵庫県出身、1929年12月4日~2013年2月14日)で突然「国際部」という担当名が記載されるのです。おそらく国際「部」という名称は、このときが初めてでしょう。とはいえ1984年‐85年度会員名簿を見ると「国際部」は鳥越氏ひとりの名前が記載されているだけで事務局に保存されている会員名簿には、名簿発行後に追加された各部部員の名前が手書きで記載されているのですが、国際部にはその書き込みもないため部員はおらず、これまでと同じようにやはり担当者一人の部だったようなのです。しかしながら日本児童文学者協会の国際部という名称は、1984年度から始まったと言っていいと思います。

ただ、鳥越信氏は一期だけの担当で次の1986‐87年度には、総務部長の塚原亮一が兼任する形になってしまっています。おそらくですが、鳥越氏は大阪国際児童文学館の開館に向けて動き回っている時期で国際部担当の肩書が必要だったのではないでしょうか。その間、無事開館(1984年5月)にこぎつけ、東京を離れ関西中心の生活になったため総務部長の塚原氏が国際部をあずかり兼任することになったと思われます。鳥越信氏とは、日中児童文学シンポジウムの打ち合わせや中国旅行(アジア大会での参加)でもご一緒して宿舎の部屋で酒盛りもしたことがあるのですが、今となってはその時でもこの間の事情を伺っていればと思わざるを得ません。ただ、わたしが日本児童文学者協会に入会したのが、1986年11月でしたので鳥越信氏が国際部長であったことはこれまでまったく知りませんでした。

では、次の話題に入る前に『戦後児童文学の証言~創立75周年記念資料集』のおよび各年度『会員名簿』より「国際」関係の担当者および部員名簿を抜き書きしておきます。

1961年度 国際 福井研介

1962年度 国際 福井研介

1963年度 国際委員会 福井研介

1966年度 国際 小出省吾(会長兼任)

1967年度 国際 小出省吾(会長兼任)

1968‐69年度 国際 小出省吾(会長兼任)

1984‐85年度 国際部 鳥越信

1986‐87年度 国際部 塚原亮一(総務部長兼任)

(以上が、ひとり部長・部員時代)

1988‐89年度 国際部 中尾明(部長)・大岡秀明・河野孝之・きどのりこ・塚原亮一

1990‐91年度 国際部 中尾明(部長)・大岡秀明・河野孝之・きどのりこ・塚原亮一・仲村修・松谷さやか

1992‐93年度 国際部 中尾明(部長)・大岡秀明・河野孝之・きどのりこ・佐藤眞佐美・塚原亮一・仲村修・松谷さやか

1994‐95年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・きどのりこ・佐藤眞佐美・しかたしん・仲村修・松谷さやか

1996‐97年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・きどのりこ・しかたしん・鳥越信・仲村修・吉田尚志

1998‐99年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・きどのりこ・私市保彦・しかたしん・鳥越信・仲村修・まだらめ三保・李慶子

2000‐01年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・きどのりこ・しかたしん・鳥越信・仲村修・李慶子

2002‐03年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・きどのりこ・しかたしん・鳥越信・仲村修・李慶子

2004‐05年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・きどのりこ・竹内由子・鳥越信・仲村修・李慶子

2006‐07年度 国際部 中尾明(部長)・五十嵐秀男(副)・河野孝之・きどのりこ・キムファン・竹内より子・鳥越信・仲村修・李慶子

2008‐09年度 国際部 河野孝之(部長)・五十嵐秀男・きどのりこ・キムファン・竹内より子・中尾明・仲村修・成實朋子・馬場与志子・李慶子

2010‐11年度 国際部 きどのりこ(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・竹内より子・中尾明・成實朋子・朴鐘振・李慶子

2012‐13年度 国際部 きどのりこ(部長)・五十嵐秀男・河野孝之・キムファン・竹内より子・成實朋子・李慶子

2014‐15年度 国際部 きどのりこ(部長)・五十嵐秀男・太田征宏・河野孝之・成實朋子・野坂悦子・李慶子

2016‐17年度 国際部 きどのりこ(部長)・太田征宏・河野孝之・成實朋子・野坂悦子・李慶子

2018‐19年度 国際部 きどのりこ(部長)・太田征宏・河野孝之・成實朋子・野坂悦子・原正和・李慶子

2020‐21年度 国際部 きどのりこ(部長)・太田征宏・河野孝之・成實朋子・野坂悦子・李慶子

2022‐23年度 国際部 河野孝之(部長)・浅野法子・大橋珠美・きどのりこ・成實朋子・野坂悦子・李慶子

ということで今回はここまで。次回第3回では、1988年以降の部員のいる「国際部」誕生秘話?をお話ししたいと思います。