国際部の歴史・第1回

国際部

日本児童文学者協会と国際交流

みなさん、はじめまして国際部の部長の河野(かわの)です。九州の福岡出身です。なぜ、出身地を出したかというと大学進学で関東に来て以来「河野」を「こうの」と呼ばれることが多くて面喰いました。

それまでずっと福岡生まれ、福岡育ちで「かわの」と呼ばれることはあっても「こうの」と呼ばれたことはなかったからです。それでルーツをちょっと調べてみましたら河野家はもともと四国の海賊あがりの大名「こうの」家が発祥のようでその分家が九州に移り住んだ際に「こうの」ではなく「かわの」を名乗ったようなのです。よって、九州では「かわの」呼びが普通だったわけです。ですから九州・福岡出身のわたしは「かわの」であります。

とはいえ、のちに国際部の活動でかかわらせていただいた児童文化評論家の上笙一郎さん(埼玉県飯能市出身、1933年2月16日 – 2015年1月29日)も児童文学作家のしかた・しんさん(愛知県出身、現韓国ソウル市生まれ、1928年3月6日 – 2003年12月7日)もお亡くなりになるまで「こうのさん」呼びが直りませんでした。上笙一郎さんなど中国人の現地読みのカタカナ表記のことで、わざわざ電話で確認の電話をかけてこられるのにまず呼び掛けが「こうのさん」だったりしました。まあ、後年は、「こうのさん、いや、かわのさん」と言い直されるようにはなりましたが。

外国人の呼び方に拘るのに日本人にはどうなんだとは思いましたが、国際交流って、こういった名前の呼び方からくるのかもしれませんね。

冒頭から脱線してしまいましたが、閑話休題。

現在の国際部には発足当初(1988年)からの部員でしたので、個人的な記憶も交えながら日本児童文学者協会国際部の歴史について綴っていこうと思っていますので、お付き合いのほど、よろしくお願いします。

なお、この「国際部の歴史」は、昨年2022年2月に刊行された日本児童文学者協会の歴史的資料文書を集めた『戦後児童文学の証言~創立75周年記念資料集』(略称「75周年資料集」以下のページ数はこの資料集からのものです)をもとに執筆した〈『戦後児童文学の証言』でみる国際部の歴史〉(2023年1月の部・委員会合同ミーティングで発表)を下敷きにして加筆・修正していることを最初にお断りしておきます。

 

まずは、日本児童文学者協会の定款「第2章」に次のようにあります。

〈第2章 目的及び事業

(目的)

第3条 この法人は、児童文学の創造と普及を図り、もって児童文学の発展と子どもの文化及び芸術の振興に寄与することを目的とする。

(事業)

第4条 この法人は、前条の目的を達成するため、次の事業を行なう。

(1)児童文学創造活動の発展のための研究と育成

(2)児童文学、読書活動に関する講座、講演会、セミナーなどの開催

(3)機関誌その他出版物の刊行

(4)児童文学の著作者の権利擁護、拡充のための調査、広報

(5)すぐれた児童文学作品の顕彰、普及

(6)子どもの読書環境の充実、子どもの権利擁護のための活動

(7)海外の児童文学、児童文化との交流

(8)その他目的を達成するために必要な事業

2、前項の事業は、日本全国において行なうものとする。〉

 

この定款は、1964年9月11日に社団法人化されるのを機に定められたものです。それまで「児童文学者協会」といっていましたが、社団法人になって「日本児童文学者協会」になります。赤字の第7項が国際交流に関するものになります。

 

国際交流の始まり

児童文学者協会は、1945年(昭和21年)5月に設立されましたが、その綱領(草案)の五に「内外の進歩的な文学、文化運動との提携」(『75周年資料集』8頁)とあり、「内外」の「外」は「外国」のことでしょう。この「定款」はこれが反映したものと思われます。とはいえ、国際交流の動向について活動方針に記載されるのは1952年度の活動方針に「六、われわれは国際交流をはかりつつ、世界の平和に寄与しよう」(37頁)と触れられたのが初めてです。とはいえ、1956年の活動方針(案)の中で次のように述べているように具体的な活動は、なかなか難しかったようです。

〈海外との文化交流ということについては、幾度か決議したことだったのでしたが、充分には行われませんでした。ことに、今夏、謝冰心が来日したときなど、自由なとらわれない気持で、中国との文化交流のよき機会とすべきでした。アメリカといわず、ソ連といわず世界のヒューマニズムにたった児童文学者や団体との交流をもっとはかるべきです。〉(46頁)

謝冰心(しゃ・ひょうしん、Xie Bingxin、1900年10月5日 – 1999年2月28日)は、中国の著名な女性作家・児童文学作家で1946年から1951年まで家族で日本に滞在していたこともあります。その後も訪日をしており、『日本児童文学』1955年11月号には、いぬいとみこさん(児童文学作家、1924年3月3日 – 2002年1月16日)が「新中国の児童文学~謝冰心女史のお話を聞いて」と8月24日の東京大学での講演会の報告を書いています。

この年の活動方針の中には、さらに「中国、アジア諸国への児童文学者の派遣」(48頁)と記載されてはいますが、なにやら作文的です。これに似た文章は1960年度にもやや具体的に「アジア・アフリカ作家会議に協力する」(62頁)。と記載はしているのですが、どう具体化したのか不明です。

1966年度活動方針では、本年度の事業計画(七)海外の児童文学との交流として、

〈外国の児童文学者との交流を積極的に推進する。「児童図書日本センター」「アジア・アフリカ図書館」の事業に協力していく。〉(76頁)

とあり、翌年1967年度(84頁)および1969年度(90頁)にも事業計画で同じ文言が現れています。この中で触れられている「児童図書日本センター」は、現在の「日本国際児童図書評議会」(略称・JBBY)の前身にあたる組織です。

そして、ようやく1968年度の活動方針に以下のようにやや具体的な記述が現れてきます。

〈チェコの「ズラテー・マーイ」誌編集長スラビイ氏の招聘来日により、世界各国の短篇集「世界の子ども」第四巻の、わが会の編集による日本での出版が決まったが、この児童文学の国際交流の最初の実現化を、文学的に成功させることで、さらに日本の児童文学の国際化を積極的にはかって行く。〉(85頁)

これに関して1969年活動方針には、「世界の子ども」(アンソロジー)の編集推進とあり、〈「世界の子ども」とその関連シリーズ(大日本図書刊)の編集をすすめ、1970年度中に発行する。〉(90頁)

とあります。つづけて1972年度活動方針にも「海外との児童文学との交流につとめ、特に予定されている「世界の子ども」の刊行をすすめていく。」(100頁)と書かれています。しかし、この「世界の子ども」に関しては、この年度以降言及されていません。調べた限りでは、大日本図書から「世界の子ども」というタイトルでの本の刊行はないし、大日本図書から日本児童文学者協会の編纂物をだした形跡もないようなので、頓挫した可能性が高そうです。もしこの経緯についてご存じの方がいれば、教えていただければ幸いです。

と1970年代初頭までの国際交流関係について『75周年資料集』の「活動方針」などから拾ってきましたが、実は、この間、日本児童文学者協会には「国際部」という名称の部は、存在していません。そのことについては、次回に。(「国際部の歴史」第2回につづく)

 

国際部・河野孝之(かわの・たかし)