〈子どもの権利〉を考える

「記録」ではなく「記憶」を遺す・養護学校編

岡田なおこ

「リレーエッセイ」なのに、引き続き書かせていただき恐縮している。
 40前後の編集者さんとお話ししていたら「就学免除」のこと等ご存知ないようだった。
 それで「ちゃんと書き遺そう」と思い。私の養護学校時代を作品にしている。
  今回も「未完の作品」から抜粋して、いくつかのエピソードをご紹介する。
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●「養護学校」@2007年に「特別支援学校」に改訂

●「就学猶予と就学免除」
私が就学した1960年代、しょうがいが重い子どもは「就学猶予と就学免除」という制度がありました。
日本では、戦後間もない1947年には「教育基本法」、「学校教育法」が制定されましたが、「しょうがい児」は例外。1973年にやっと「養護学校が義務教育」になります。
その制度は「しょうがいの重い子どもは無理しなくていいですよ」という配慮にも見えますが、実際には、「重度しょうがい児を教育しても意味がない」と、そんな考えがまかり通っていたのでしょう。
強い意志のある保護者は、すべて自己責任・自助努力で「しょうがい児」を地域の普通学校に通わせていました。
でも、地域によっては普通校で門前払いにあう子もいて、親元を離れ養護学校で寄宿舎生活をしていました。裕福な家庭だとしょうがい児に「お手伝いさん」をつけたりして、「学校教育」を受けさせていたのです。
 
●「お当番」のお母さん
私が就学した学校には、正規の教員の他に「介助のせんせい」という学生アルバイト。
それでも人手が足らず、保護者(母親)が「お当番」で教員の手伝いをしていました。全面介助を要する子の親は「入学できただけで幸せ」とでもいうように、毎日付きっ切りで学校にいました。
私の母は「幼稚園では付きっ切りだったから、学校には一人で行きなさい」と、当番以外の日はあまり学校に来ませんでしたが、次世代のために「養護学校の義務化・全員入学制の運動」に参加していたと、後で知ります。

●全入制@養護学校の義務化
全国の教職員や研究者、そして保護者(主に母親たち)による「不就学をなくす運動」が実り、1974年に養護学校の義務化が実現。しょうがいの重い子どもも務教育が受けられるようになります。
それと同時に教職員が急増し、新卒で「しょうがい児なんて見たこととともない!」、そんな先生がわんさか入ってきました。
職員室はあふれかえり、てんやわんや。
ベテランの先生はもちろんですが、教員免許のない「介助のせんせい」も新人の指導に追われていました。
目まぐるしく変わっていく歴史の渦中に私はいたのだと思います。
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「養護学校の義務化」に始まり、しょうがい児の権利は保障されていった。しかし時代と共に「しょうがい児」を取り巻く環境は大変複雑に変化し、一人一人の子どもに合った教育ができているとは言えない。
  ただ半生記前にしょうがい児の親たちが結束したようなパワーは、今あるだろうか?
 2024年現在の私たちは未来の「当たり前」を目指し、活動を積み上げていかなければならないと思う。