〈子どもの権利〉を考える

子どもの怒りの声を聞け

黒川裕子

「黒川さんの作品っていつも何かに怒ってますよね」
「明るめの作品でも、根底には怒りがあるように感じます」

 児童書の編集者、評論家の方にたまに言われる言葉だ。
 わたしは至極おだやかな人間なので「そうかもしれませんね」と笑顔で返す。よくおわかりで、と思う。まだまだこれからですよ、と内心チラッと舌を出したりもする。

 そのとおりだ。わたしの中にはいつも怒れる小中学生がいる。
 当時私はとても怒っていたし、大人になってもことあるごとに当時を思い出して怒り続けている。そんな隠れ怒りんぼうの私が、ふたりの小さな宝物の親になった。すったもんだの育児の末に姉はもう小学四年生、弟もやっと一年生になった。
 彼女/彼の日常生活、学校生活をこの上なく近い場所から見ていると、折にふれて、催眠術にも似た「大人の理屈」で眠らせたはずの怒りがよみがえる。

 藤田のぼるさんが先のエッセイで述べられたように、2019年の冬に端を発し今でも続いているコロナ禍は、まさに私の中の子どもと大人がいっしょになって怒りを大爆発させるきっかけになった。
 ふたりの児童を抱える一保護者として、あの時期は大変に憤ることが多かったことを思い出す。

 突然の一斉休校。学校がなくなってほっとする子どもがいた。学校にしか居場所がない、学校の給食でしかまともに食事がとれない子どもがいた。オンライン通塾できる子どもがいた。その一方に家庭学習の環境が整わない子どもがいて、一気に学力の格差がついた。
 子どもたちが遊ぶ場所が失われた。どうしてもガマンしきれず子どもがこっそり公園に遊びに出ると、近辺に住む多くの大人からクレームの電話が鳴った。もっと多くの大人がそれを黙認していた。では何が子どもにとっての最善かと、考えようとする人は少なかった。
 プールや音楽など、主要教科以外の習い事をやっていない子どもは体験機会が大幅に失われた。それどころではない、医療従事者のみなさんを見てみなさい、命を亡くすよりずっとましでしょう――そう言われれば子どもは黙るしかない。子どもを黙らせるキーワードには事欠かなかった。
 オンライン授業がやっとはじまった。家庭にWi-Fi環境がない子どもが想定よりはるかに多くにいた。保護者にネット知識がない、そもそもそばで見守りをする大人がいない。実体がわかったのは、オンライン授業がよちよちと歩み出してずいぶん経ったころだ。改善がなされるかどうかは、自治体頼りであった。
 子ども、大人を問わず感染者にかかわる悪質なデマ・差別がSNSを駆け巡った。新一年生になるはずの外国人の子どもが、日本語の広報にアクセスしづらいため(「やさしくない日本語」があまりに多い)リアルタイムな情報から遮断され、学業からさらに遠ざかってしまった。

 ――とにかく、多くの「ふつうの大人」が大人側の利益を優先していた。
 コロナ禍において、子どもは大人の従属物であることが鮮明になった。
 言うまでもなくそれは本来の姿ではない。

 怒り、怒り、願い。それが、私がある作品を書く爆発力になった。
 そうして生まれたのは『#マイネーム』(2021年9月/さ・え・ら書房)である。
 ただし、私は子どもたちに変わって彼女ら/彼らの言葉を代弁したりしない。私自身が怒っているから、読者にこの熱をぶちまけたくてしょうがないから書くだけである。

 子どもたちも、自分のために、自分の言葉で怒ってほしい。
 大人なんかに代弁させるんじゃない。
 もし理不尽なことがあれば、子どもたちは怒りを学校、先生、保護者、身の回りの大人に向かって容赦なく炸裂させていい。それが本来のすがたであろう。
 だが、いまの子どもたちは十分に怒ることができているだろうか?
怒る場所を、聞いてくれる相手を見いだせずに、悔しいやるせない種火を己の内側にくすぶらせてはいないか?

子どもが怒りを表せる場所と機会が必要だと痛切に感じる。

 私たちはまず子どもの権利について考えることからスタートしてみよう。
 大人の立場にも思惑にも関係なく個々の子どもが生得する、子どもが自分自身を守るために、よりよく生きるために有する権利について。