〈子どもの権利〉を考える
ねことアンデスと子どもの権利
安易な三題噺的タイトルで失礼します。
以前、勤務先の近くにねこスポットがありました。
なにかの倉庫の前らしいセメントばりのスペース。普段は閉まっている鉄柵の向こうに、3,4匹のねこがごろごろしているのです。心の中の猫なで声で(あらぁ、きょうもいるのぉ~)と声を掛け、時折、スマホのカメラを向けていたのは私だけではなかったはず。その前を通るときには、いつもねこの姿を探して、一瞬心を和ませて、職場へ、駅へと急ぎ足で通り過ぎるのでした。
ある朝のこと、いつもカリカリと水が置いてあった植木の根元にメッセージが置かれていました。それは、ここにいたねこたちはみんな安全な場所に保護されていったという報告でした。地域で見まもっていた方々が心配しないように、地権者の許可を得て、このメッセージを置かせてもらうとありました。
ガツンとやられました。
私は、あーかわいい、まーかわいい、と無責任に愛でるだけでした。しかし、暑い日寒い日嵐の日、ねこたちの安全を気にかけ保護しようと動いていた人がいたのです。
そして、痛い心で改めて思い出しました。
私は南米好きでして、初めてペルーやボリビアのアンデス地方を訪れてから、はや34年経ちます。ペルー、ボリビア、アルゼンチンを中心に何度か、かの地を訪れているのですが、マチュピチュや、チチカカ湖といった第一級の観光地でガムやチョコレート、民芸品などを買ってくれと群がってくる子どもたちを、私はエスニックな風景のひとつとして消費していたのだと思います。そのことに気づいたのは、メキシコやフィリピンのストリートチルドレンの支援をしているジャーナリスト工藤律子さんの書かれたものを読んだときだったか、お話を聞いたときだったか……。それもいまでは、定かではありませんが、結構長い期間、私は、アンデスで物売りをする子どもたちの姿を人権の観点から見ることができていませんでした。
ひるがえって児童文学を考えます。作品の中で子どもたちはさまざまな困難に直面しますが、それを、がんばるけなげな子どもの物語として消費してはいないか、それは理不尽だと子どもと共に怒っているか……そういう観点で児童文学を読みたいと思う私です。
公開研究会「児童文学と子どもの権利」、10月21日(土)の開催です。本HPの研究部ブログの方でも、準備状況その他をアップしていきますので、ご覧いただけたら光栄です。