岡山セミナー通信 No.6 ~瀬戸内海の島~

組織部

笠岡諸島にある真鍋島へ行ってきました。

実は、ここは四十年以上も昔に、私が祖父や従弟たちと訪れた思い出の場所なのです。小学校五年の頃だったでしょうか?

いつかまた訪れたいと願いながら、流れていってしまった幾星霜。ふと思い立ち、再訪した島――ところが、それは、カルチャーショックという言葉以外では言い表せないものでした。

船から降りたとたん、眼前にあったのは、ゴーストタウンのごとき漁村。人口は160人ほどだと聞いていましたが、それだけ過疎化が厳しくなっているのだろうか?

港周辺には、食事処が三か所ほどあるだけで、雑貨店すら見当たらない。瓦屋根の家々は、すでに無人化し、ポストや表札のみが寂しげに光っています。

この本浦の町並には、人ひとり通れるほどしかない細い通りがうねうねと続き、歩いていると、あたりはしいんと静まり返っている。廃屋がどこまでも続く様は、まるで、白日夢の中にいるような不可思議な気持にさえ、なってしまうほどです。

近くには診療所もあるのですが、お医者さんは本土から週2~3回通ってくるだけで、あとの1回はオンライン診療のみだそうな。

「ドクターコトー」みたいな医師がいれば、いいのにね。

 

防波堤そばに集まっていた猫たちのうちの一匹。

どの猫も、がりがりに痩せているのですが、みな面構えが何ともふてぶてしい。この猫も見よ! キッとした目でこちらを見上げています。

離島では、動物は野性に帰るのだろうか……?

 

真鍋島を再訪したいと思っていたのは、昔、ここで泊まった宿が忘れられなかったせいもあります。

元小学校を改造したというその宿は、畳敷きの和室の横に学校時代をしのばせる長い廊下や階段があり、目の前には椰子の木やハンモックがぶらさがった庭と、そのさらに向こうには、海が広がっていました。

一週間近くいた間、毎朝、この海に飛びこんだのですが、それまでカナヅチだった私がはじめて、泳げるようになった嬉しい思い出もあります。

当時の真鍋島は、段々畑に花が咲き乱れ、高台から本浦の路地の間をくぐりぬけていくのさえ、スリリングな面白さがあったもの。その宿を訪れようと、案内板の示す通り、歩いていこうとしたら、崩れかけた石段を上がり、丘を回り、とんでもない崖の方へ行ってしまう!

とても無理だ、と引き返したのですが、往時の花の島の情景と現在の荒れ果てた寒村の対比は、歳月というものの恐ろしさと同時に、感慨深いものがありました。

映画「瀬戸内少年野球団」のロケに使われたという真鍋中学校もすでに廃校。入口には、固く錠が下ろされていましたが、中は少しのぞくことができ、下がその写真です。

木造の廊下が続き、入口そばの「校長室」の黒い板が、古き良き時代を偲ばせます。

この校舎も、今では子供たちの声がこだますることなく、眠りについています。ただ、今も世話をする人がいるらしく、みずみずしい緑の植物が棚の上に飾られていたのが印象的でした。

 

訪れたのがゴールデンウィークだったせいで、島の大切な行事だという「走り神輿」にも出くわすことができました。

三台の神輿が整然と並べられ、昼下がりと共に、数少ない子供や若者たちが神社の境内へ集合してくる。

そして、鬨の声と共に、神輿を掲げて、私たちの前を疾走してゆきました。

過疎の島で、今でもかすかな灯りのように存属している祭り――この灯が消えないで欲しいと思いながら、帰りの船に乗ったのですが、風光明媚な瀬戸内海の光と影を味わうつもりで、島を訪れるのもいかがでしょうか?

白日夢のような情景と共に、何かを心に刻むことができるかもしれません。

竹並 麻夕子