115、二つのお別れ(2023,9,27)
【24日、加藤多一さんを偲ぶ会でした】
・二日遅れとなりましたが、これは予定通りで、24日にこの3月に亡くなられた加藤多一さんを偲ぶ会があり、24・25日と、札幌に泊り、昨晩戻りました。加藤さんについては、亡くなられた時に思い出を書きましたが、葬儀には出られなかったので、今回、偲ぶ会のご案内をいただいて、これは行かなければと思いました。協会の北海道支部の方たちを中心に、加藤さんの身近にいた方たちの集まりで、加藤さんと親しかった丘修三さんや、長野ヒデ子さんはお嬢さんとご一緒にご出席でした。
息子さんの卓さん、お嬢さんのたみさんもお見えになりましたが、奥さんの詩子さんは(僕と同学年ですから、加藤さんより大分年下でしたが)、10年ほど前に他界されています。
・加藤さんが亡くなられて半年が過ぎたこともあり、寂しさはもちろんあるものの、しめっぽさより、加藤さんのいろんなエピソードで笑いもあるような、心のこもった集いでした。印象的だったのは、北海道支部の若手男性二人の存在で、そのお一人の三品慧さんが、加藤さんの作品の朗読を、もうお一人の速渡晋土さんが、閉会の挨拶をされました。速渡さんは、長野県のご出身ですが、学生時代に北海道の牧場でアルバイトをされ、その時に加藤さんの作品と出会ったのだそうです。「昼は牧場の仕事、夜は加藤作品の読書」という時間を過ごされたということで、加藤さんが聞いたら(いや、聞いたのかな?)泣いて喜びそうな出会いでした。その後の二次会で、子ども時代には、協会の信州支部(信州児童文学会)が出していた『とうげの旗』の読者だったとも聞き、なにか協会支部の活動の申し子(?)のような方だなと、うれしくなりました。
・他にも、何年ぶり、何十年ぶりという方もいらっしゃいましたが、思いがけなかったのは、安藤美紀夫さんのご子息の直樹さん(かつて国土社の編集者でした)がいらしたことで、僕がスピーチをしようとしたら、目の前に彼がいて、思わず「安藤さん?」と言ってしまいました。何十年ぶりの口ですが、お父上にそっくりになっていました。安藤美紀夫さんは、京都大学を出られた後、しばらく北海道で高校の先生をしていて(その後、日本女子大の教授になられましたが)、直樹さんは、だから北海道生まれなわけです。葬儀とか、偲ぶ会というのは、時にそういう出会いがあるもので、いわゆる「故人の引き合わせ」ということでしょうか。息子さんの卓さんに初めてお会いできたこともうれしかったですし(たまたま僕の息子と同じ名前でもあり)、そうしたことも含めて、ようやく加藤さんとお別れができた気がしています。
【もう一つのお別れは】
・さて、「二つのお別れ」とタイトルに書きましたが、実はこの19日、仙台の兄が亡くなりました。奇しくも、加藤さんと同じ88歳でした。前に何度か書きましたが、僕は6人兄弟の末っ子で、亡くなったのは2番目の兄、長兄はすでに亡くなっています。その下に3人の姉がいて、僕が6番目となります。兄の死は突然というわけではなく、少し前から容態が思わしくないとは聞いていて、正直覚悟はしていました。
兄たちは僕より(長兄は)17歳上、亡くなった次兄は15歳上ですから、兄というよりは、若いおじさんという感じでしょうか。そもそも僕が物心ついた時には、二人とも進学や就職で、家を出ていましたから、お盆や正月に帰ってくる人でした。ですから姉たちに比べれば、距離があるともいえるのですが、逆にあこがれの対象でもあり、なんというか、いろいろな意味で「影響」を受けた気がします。比べて言えば、(演劇青年だった)長兄からは“文学”を、銀行勤めだった次兄からは“社会”を学んだような気がします。
・僕が小学校2年生の時ですが、その時、兄は家から通える支店(秋田銀行ですが、家から通える支店は限られていますし、兄は仙台、旭川など、県外の支店勤めも長かった)にいて、ですから、僕は物心ついて初めて一緒に暮らした時期です。学校の、ちょっと珍しい宿題で、「家の人に、仕事について聞いてこい」というものでした。多分、社会科の「はたらくおじさん」という単元だったのだと思います(その後、働くのは「おじさん」だけではないということで、「はたらく人たち」になりましたが)。僕は町の役場に勤めていた父に聞いてもよかったわけですが、なんといっても兄がいるのは珍しい(?)ことですから、兄にインタビューを試みました。いくつか質問項目があり、確かその最後が、「仕事の上で、いやなこと(あるいは、困ること、だったか)は、なんですか?」という問でした。すると、それまで割とスルスル答えていた兄が、一瞬間を置きました。そして、ちょっと声の調子が変わり、「それはな、のぼる……、本当にお金に困っている人に、お金を貸せないことだよ」と、答えてくれたのです。そのことを、兄の表情も含めて、鮮明に覚えています。
まずびっくりしたのは、多分、銀行が(お金を預けるところだと思っていましたから)お金を貸す仕事をするところなんだ、という点だったと思います。そして、兄が(高卒だったので、勤めて4、5年目くらいだったでしょうか)そういう思いを抱えて仕事をしていること、さらに子どもである僕に対して、きわめて誠実にそのことを伝えてくれたことへの驚きというか、感動だったように思います。ややおおげさにいえば、僕が「社会」というものに目を開かされた契機だったかもしれません。
そのほか、兄はクラシック音楽が好きで、日曜日の朝など、よくシューベルトの「ます」がレコードプレイヤーでかかっていました。大分後ですが、兄が結婚するとき、奥さんとダブったというレコードをもらったのですが、その中にショパンのピアノ協奏曲があり、大学の受験勉強の時のバックミュージックの主要曲(?)のひとつになりました。
それにしても、児童文学の世界の兄貴分、そして本物の兄貴と、上が(髪の毛ばかりでなく)とても寂しくなりました。でも、ここまで書いたように、本当に、そうした人たちの、どんなにおかげを被ったてきたか、それを考えると、寂しい一方、心があたたまる気もします。
そうそう、兄貴分といえば、「那須正幹電子記念室」が、ようやくこの22日、公開となりました。アップされてみると、不充分な面も目につきますが、それなりに苦労して仕上げました。まだの方は、ぜひご覧いただければと思います。