翻訳者のつぶやき―「みてもらおう」と「みせてあげよう」に挟まれて 野坂悦子
私はオランダ語の子どもの本を日本語に訳している。物語の展開や、文章表現の中で特徴的なのが、オランダ人の個の強さである。世界に先駆けて、同性婚や安楽死(尊厳死)を法的に認めてきたことにも、ひとりひとりの考えや、生き方を尊重する社会だということがよく現れている。
個の強さ、ということを考えるとき、日本の精神と、西洋人全体の精神の違いについて、臨床心理学者であり日本文化の探求者として知られる河合隼雄の、ドナルド・キーンとの対話が興味深い。(『母性社会日本を生きる』(河合隼雄全対話第九巻、第三文明社、1998年 pp.145より引用)
”西洋の近代は合理的な精神で、非常に強力な自我というものをつくってきた。それがすごい業績を上げながら、行きつくところまできてしまった(…一部省略…)日本人の場合はむしろ、個人の発想じゃなくて全体の「場の発想」が優先する。「場」の中でどう生きるかというふうなことをやってきた。ところが、「場」の中でどう生きるかという方法では、下手をすると個人の気持ちとか自分の意思が押さえつけられてしまう。そういう 点で西洋の個人主義は非常にいいものだということがわかってきて、だんだんそちらに近づいて行った。”
翻訳を始めたばかりの頃、私は、子どものために訳すことは、日本人の精神に文章を近づけることだと思っていた。その作業によって、ふだん使われている、なめらかな日本語になるからだ。しかし、それでは他国の文化を十分にリスペクトしたとはいえない。さらに、読者の子どもたちの理解力も軽視することになってしまう。とはいえ、ごつごつした直訳にはしたくない……ジレンマを抱えつつ、少しずつやり方を変え、今は日本語としてできるだけ自然でありながら、オランダらしさの残る表現を選ぶようにしている
具体的に、たとえば『だれが いちばん?がんばれ、ヘルマン』*(イヴォンヌ・ヤハテンベルフ作、野阪悦子訳、講談社)の場合を見てみよう。
この絵本の中では、いつもマイペースの豚のヘルマンが、まわりのメンドリたちの競争騒ぎのなかで、ある日「Ik zal eens laten zien wie de eerste de beste is, dacht Herman」と思うところが、ストーリーの転換点になっている。直訳すれば「だれがいちばんが、ぼくが見せよう、とヘルマンは考えた」という意味だ。私は最初、この一文の訳を日本人の感覚で、「だれがいちばんが、みんなにみてもらおう」と無意識に訳していた。「みんなにみてもらう」という表現では、「みんな」という「場」が存在し、しかもそれがどちらかというと「上」であり、自分の立場が「下」になる。引用した河合氏の言葉の通り、「場」の中でどう生きるかを考えた表現である。そう思うヘルマンのことを、読者は、幼くてかわいい存在に感じるかもしれない。
しか自分の訳を読み返し、これではいけない、と思い始めた。ヘルマンはオランダ人の精神で行動しているのだから、「みんな」より、「自分」が大切でないといけない。強力な「自我」をもっているヘルマンの行動の基準は、個が優先されるべきだ。そこで上記の訳を、「だれがいちばんか、みんなにみせてあげよう」という表現に変えた。「…してあげる」というのは、自分を優位におくときに使う表現で、それがこの一文の訳には、ぴったりだった。
国際結婚をしている日本人の友人が、日本語の堪能なオランダ人の夫と夫婦喧嘩をするとき、日本語を使うと初めから負けが決まっているから、あえてオランダ語を使うという。私たちが使っている日本語には、複雑な敬語があり、男女の言葉の違いも色濃く残る。そこにはすでに、一種の力関係が刷り込まれていないだろうか? 日本語を巧みに使うことによって、そんな危い規範まで、受け入れることはないだろうか?
子どもたちは、ジェンダーや年齢や、国籍や立場にとらわれず、相手と対等に話せるような人間に育ってほしい。私は翻訳を通して、しなやかで新しい日本語を届けなくては、と思う今日この頃である。