186、大阪に行ってきました (2025,12,16)
【大阪国際児童文学館の講演会】
・前回に続き一日遅れになりましたが、今回は予定通り。14日の日曜日に、大阪府立中央図書館で、国際児童文学館主催「日本児童文学 戦後80年のあゆみ」の展示にちなんだ講演会があり、前日の13日から昨日まで、大阪に行ってきました。
大阪府立国際児童文学館は、もともと万博公園(もちろん、太陽の塔のある、前の万博会場跡です)に独立した文学館としてあったわけですが、今は東大阪市の府立中央図書館内にあり、館の運営も図書館が直接行っています。(万博公園で国際児童文学館を運営していた大阪国際児童文学振興財団は、現在、府立中央図書館内に事務所を移転しています。)ともかく、日本で一番児童文学資料のそろっているところであることはまちがいありません。
今回のイベントは、上記のように、「戦後80年」がテーマで、展示も、さすがに敗戦直後の児童雑誌などがきわめて良好な保存状態で並べられていました。講演の方は、財団の前理事長である宮川健郎さん(今年から、富安陽子さんが理事長に)と僕が50分ほどずつの講演で、その後、財団の土居安子さんの進行で二人の対談というプログラムでした。
・講演の冒頭でも話したのですが、僕は『日本児童文学』に初めて評論を載せてもらったのが24歳の時、1974年ですから、今年が51年目。実は、その年にまだ19歳で学生だった宮川さんと出会っています。その二人が共に70代になって「戦後80年」について語っている、というのは、やはりいささか感慨深いものがありました。
講演の中味は、いずれ報告集が出ると思いますが、宮川さんの演題が「現代児童文学史の語りかた」、僕の演題が「「現代児童文学史」への道程」というあたりに、二人の問題意識が込められていると思いました。つまり1959,60年に始まるとされる「現代児童文学」を理論的に支えた、鳥越信、古田足日の圧倒的な影響力の中で育ってきた僕や宮川さんが、戦後80年という区切りの中で、どうその「現代児童文学」を相対化できるか、ということが、いよいよ問われているな、という感じでしょうか。僕としては、現代児童文学史を書くために発行している個人誌『ドボルザークの髭』が、いろいろあって今年はまったく出せていないので、がんばらなくては、と強い刺激をもらった一日でした。
【次の日に】
・講演会の後は、関係者の懇親会があり、翌日~つまり昨日ですが~帰りました。僕は、東大阪市は奈良に近いこともあり、帰りに寄りたいところがありました。前にも書いたことがあると思いますが、神社仏閣を見るのが結構好きなのですが、京都は何度も行ったものの、奈良は修学旅行は別として、2回くらいしか行ったことがない気がします。その2回目だったか、それにしたって随分前のことですが、一番行ってみたかった唐招提寺が全面改修のために入れなかったのです。この機会に、と思い、東大阪から近鉄で40分ほどの西ノ京駅を目指しました。
ここは駅のすぐそばに二つの三重塔で有名な薬師寺があり、7,8分ほど歩くと唐招提寺があります。どちらも、期待通りで、月曜日だったので、観光客も少なく、いいお寺参りでした。唐招提寺を出たところで、ちょうどお昼時だったので、ニシン蕎麦で昼ビールを飲んだのが、最高に?おいしかった、というオチでもありました。
・なので、帰りの新幹線は京都からでしたが、乗ってから、スマホのメールやラインをチェックしたわけですが、何日か前に届いていたショートメールを見逃していたことに気づきました。それは学生時代の友人のK君からで、彼は大阪在住です。年賀状のやりとりはしていますが、何十年も会っていません。
その彼がショートメールをくれたのは、7日付の「赤旗」の読書欄で、僕が出した『童話作家のアイウエオ』のことが、僕の写真付きで載っていたのを見てくれたからでした。大阪の帰りに、大阪の旧友から久しぶりの連絡をもらうという巡り合わせだったわけですが、実は彼は、僕がいま児童文学の仕事をしていることに深く関わっています。
これも書いたことがあると思いますが、僕が児童文学にはまったのは、大学一年生の時に、友だちの部屋の本棚にあった『べロ出しチョンマ』を借りて、自分の部屋で読み、その冒頭近くにあった「八郎」を読んで、ショックを受けたからなのです。そして、その友だちというのが、K君だったのでした。
この年になると、50年前だの、60年前だのといった話が普通に出てきて、我ながら妙な気もしますが、ともかく自分のこれまでのいろいろと出会ったような三日間でした。