180、新美南吉と岩崎京子さんのこと(2025,10,15)

理事長ブログ

【まずは、新美南吉のこと】

・この前までの暑さが嘘のように、秋めいてきました。このところ何枚か書いたハガキは、「短い秋です」が書き始めです。

さて、この間の二つのできごとを書きますが、まずは新美南吉絡み。佐藤B作が主宰する東京ヴォードピルショーの公演「狐と南吉」が、新宿のシアターサンモールであり、8日に観てきました。これは、新美南吉記念館にご招待があり、館長の遠山さんも半田から出てこられたのですが、同館の事業推進委員をしている僕と宮川健郎さんも、“ご相伴”にあずかったような次第でした。

チラシに乗っている案内文によれば、朝日新聞の天声人語で南吉のことが書かれているのを読んだB作さんが、「(29歳という若さで亡くなった)新美南吉氏の生きざまを知り感銘を受けました」のが、きっかけのようです。遠山さんにうかがうと、3年前にB作さんと、脚本家の鈴木聡さんが記念館を来られ、そこから始まったことのようでした。

まずは、南吉が代用教員だった時から話が始まります。この時、18歳だった南吉が「ごん狐」を書き、『赤い鳥』に投稿する前に、担任している子どもたちに読んであげるわけですが、そこで兵十役とごん狐役が出てきて、小さな劇中劇のような形で「ごん狐」のラストの場面が演じられます。その後は、南吉の生涯をたどるように劇が進んでいくのですが、(女性が演じる)ごんが時折登場し、南吉にささやきかけます。つまり、ごん(狐)は、南吉の内心の声のようなキャラクターに設定されているわけです。

もう一つの“仕掛け”は、「ごん狐」のラストシーンの、鈴木三重吉による「改作」で、良く知られているように、『赤い鳥』の主宰者だった三重吉は、投稿作品の「権狐」を掲載するにあたり、タイトルの表記も含め、かなりの改作をしています。この劇でクローズアップされていたのはラストシーンで、南吉の原稿では、(兵十に火縄銃で撃たれたものの、兵十が、栗や松たけを届けていたのが自分だと気が付いてくれたので)「ごんはぐったりと目をつぶったまま、うれしくなりました」としています。これを、三重吉は「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました」と直しているのです。「内心の声」であるごん(役)は、南吉(役)に「お前、本当は、あんなふうに直されて嫌だったんだろう?」というふうに問いかける(というか、けしかける)わけですが、南吉はそれに対してははっきりとは答えません。むしろ、ここは観客に問いを投げかけているようでもありました。

そして、僕がこの劇の一番のテーマというか、感じ取ったのは、「決められた時間の中で、どのように表現を全うするのか(全うできるのか)」という問いのように思えました。南吉は子どもの頃から体が虚弱で、母親は29歳で亡くなっています。結局、南吉自身も結核で、同じく29歳で亡くなるわけですが、そうした予感は十代の頃から強く持っていた、という設定で、劇は書かれていました。ですから、南吉の創作活動は、限られた時間との戦いでもあったわけです。

劇が終わって、B作さんや脚本家の鈴木聡さんが、我々の座っている客席まで挨拶に来られました。

そこで僕は「B作さんは、何年生まれですか?」とうかがったら、1949年の2月ということ。僕と一年違いです。75歳になった今、やはり僕は自分の「残り時間」ということを、かなり意識します。それはB作さんも、そうなのではないか。だからこそ、29歳の若さで「残り時間」と格闘した新美南吉のことが、深くB作さんの心を捉えたのではないか。そんなふうに思え、改めて演劇というジャンルのおもしろさや深さに、感じ入りました。

【そして、岩崎京子さん】

・さて、その2日後の10日に、7月に亡くなられた岩崎京子さんの追悼会が、杉並区の井草幼稚園で行われました。「岩崎京子先生 感謝の会」という名づけの集いでした。この幼稚園では、何十年も前から岩崎さんの「かさこじぞう」を園長さんの脚色で園児たちが演じてきた、ということで、岩崎さんも毎年それを見に来るのを楽しみにしておられた、ということでした。そして、この「感謝の会」でも、園児たちによって「かさこじぞう」が演じられたのです。

岩崎さんのことは、亡くなられた7月のブログに書きましたが、柔和な物腰のかげに、強烈な“作家魂”を感じさせる方でした。29歳で夭折した新美南吉、102歳の天寿を全うされた岩崎京子さん。あまりにも対照的な生涯に見えますが、文学との格闘という点では、なんら変わることのない時間を過ごされたようにも思われます。そもそも二人とも大正生まれですし。

それにしても、「狐と南吉」、再演の予定は今のところないようですが、児童文学関係の人たちにも、もっと観てほしかったなと、そればかりは残念です。