177、角館のお祭りやら、今村翔吾さんのことやら (2025,9,15)

理事長ブログ

【秋田に行ってきました】

・前回、書いたように、あきた文学資料館での斎藤隆介展のオープニングの講演で、6,7,8日と、秋田に行ってきました。講演は7日の午後で、前日の夜は学生時代の友人の斉藤君(斎藤隆介とは関係ありません・笑)と一杯。敢えて名前を書いたのは、斉藤君は僕の「作家デビュー」と関わっていて、彼とは学生寮で一緒だったのですが、一年生の夏休み、彼のお父さんが出稼ぎの人集めをやっていて、「一緒に東京で働かないか」と誘われ、一ヵ月近く、(これは以前書きましたが)神楽坂下の東販の発送現場で働いたのです。この経験をもとに書いたのが『雪咲く村へ』で、これが僕の初めての本になりました。ですから、その時斉藤君に誘われなければ、僕の作家デビューは、多分なかったわけです。

・翌日の講演は、「秋田で斎藤隆介について話す」ということで入れ込みすぎた感があり、思い出話みたいなことに時間をとられ、肝心の「八郎」の改稿のことや、前回書いた、最後の作品「爆走」のことにはまったく触れられずに終わってしまいました。反省!!

【そして、角館のお祭りに】

・これも前に書いたと思いますが、講演がたまたま9月7日ということで、ちょうど角館のお祭りの一日目と重なり、この機会にぜひ行ってみようと思いました。僕の出身地は、角館の隣の町ですが、中学時代は毎年お祭り見物に行きました。角館は小さな町ですが、佐竹藩の支藩があった城下町で、今はそれなりの観光地になっています。ここのお祭りは、町内ごとに出す山車をぶつけ合う「山ぶつけ」というイベントで、僕が子どもの頃は、挟まれて亡くなる人が出るなど、“真剣勝負”でした。

・さて、講演を3時に終え、角館に向かいました。こまち(秋田新幹線)で40分余りです。駅に降りて、「あれっ?」と思いました。なにやら閑散としていて、お祭りの熱気が感じられないのです。「まさか、日を間違えたか?」とさえ思いましたが、町の方に歩いていくとお囃子の音が聞こえてき、安心しました。この日は宵宮で、山車が神社の前に集まり、順番に舞を奉納して、それから街に繰り出すという形で、中学生の時はそこは見たことがなかったので、言わば祭りの始まりを初めて見られたわけですが、ちょっと驚いたのは人の少なさ。外国人を含む観光客らしい人たちもちらほらいましたが、僕の子どもの頃は、それこそ近郷近在の老若男女がすべて集まったかと思うような人手だったので、いささか拍子抜けしたような感もありました。パターンは少し違いますが、芥川の「芋粥」を思い出しました。

ただ、山車の上で手踊りを奉納する少女たちの真剣さは、昔のままで、中学生の時はややあこがれで観ていたわけですが、今回は孫の発表会を見守るような気分(笑)で、60年という時間をかみしめた次第でした。

【話は、まったく変わって】

・今日の毎日新聞を見ていたら、直木賞作家の今村翔吾さんの「乱読御免」という連載エッセイが、最終回とありました。その最後にとりあげていたのは、1989年に発行された大阪書籍の小学校国語教科書・6年に、司馬遼太郎が書き下ろした「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章のことで、僕も他社の教科書の編集委員をしていましたから、この文章は記憶にありました。その中に、あなた方が生きる「未来」には、私はもういない、というような一節があり、実際司馬遼太郎は1996年に亡くなるわけですが、これを紹介した今村さんのエッセイの最後の節に、〈私も「未来」を生きる子どもたちに何かを残したい。それは小説という形であり、同じく随筆という形かもしれない〉と書き、その後に〈そして、書店である〉と書いています。歴史の中で消えていったものはいろいろあるし、書店もその一つかもしれないが、〈私は必要だと思っているが、それを選ぶのはまさしく「未来」に生きる子どもたちだと思う〉としています。そういえば、今村さんは、大阪、佐賀などで、実際に書店経営に携わっていたと思います。話があちこちですが、そう言えば、司馬遼太郎は、確か大阪国際児童文学財団の初代理事長を務めた、のではなかったか。

必ずしも児童文学の話というわけではありませんが、子どもと本との出会いへの、うれしいメッセージとして読みました。