174、「伝える」は、伝わるか?(2025,8,15)

理事長ブログ

【80年目の】

・「終戦記念日」です。二日前、13日の夜ですが、NHKテレビで、「八月の声を運ぶ男」というドラマが放映されたのを、ご覧になった方もいらっしゃると思います。終戦時の特集でドキュメンタリーには注意していますが、これまでドラマはあまり見たことがありません。今回は、新聞の予告で、見てみたいと思いました。その予告によれば、「長崎放送の記者だった伊藤明彦の著書「未来からの伝言」を原案にしたスペシャルドラマ」ということでした。

今年は標記のように、戦後80年ですから、それがドラマの背景にあるのだろうと思って見始めたら、時代設定は1972年。戦後“まだ”27年の時代です。但し、「まだ」というのは今から見た言葉で、この時の多くの人の感覚は、「もう27年」だったと思います。僕は留年して、二年目の大学四年生をやっていた年で、児童文学賞をほぼ総なめした、安藤美紀夫の『でんでんむしの競馬』や、ベトナム戦争からの脱走米兵をかくまう日本人グループを題材にした、さとうまきこの『絵にかくとへんな家』が出版された年。翌年には、今江祥智の『ぼんぼん』が出され、戦争を描くにしても、太平洋戦争の時代をそのまま描くのではなく、なんというか、(戦争を知らない)子ども読者に伝えるための方法意識ということが大きく問われていた時期だったと思います。

・さて、テレビの方ですが、主な登場人物は二人の男性。二人とも三十代半ばから後半という年頃でしょうか。ですから、子ども時代に戦争を体験しています。一人の方、本木雅弘演じる辻原は、上記の本の著者自身がモデルのようで、ですから長崎放送局の記者をしていて、被爆の体験者からの聞き取りを続けていたのですが、局との折り合いが悪くなり、フリーになって、聞き取りを続けています。夜はキャバレーでアルバイトしながら、重い録音機を提げて、被爆者のいるところ、全国を回っているわけです。ちょっと話がズレますが、その大きな録音機が画像的にはひとつのポイントになっているようで、後で調べてみたら、カセットテープはこの時すでにあるにはあったようですが、一般に広く使われるようになったのは、70年代半ばあたりからだったようです。

そんな辻原が、長崎の被爆者だという九野という男を紹介されます。こちらは阿部サダヲが演じているのですが、被爆した後遺症で、障害が残り、肉親でただ一人残った姉の世話で生き延びてきた、というような設定です。その九野を何度か尋ねて話を聞くのですが、たまたま、九野には姉などおらず、両親や兄も存命であることが判明してしまいます。被爆者の「語り」が嘘というか、実際の体験ではなかった、という話は、長崎源之助の『うそつき咲っぺ』などがありますが、ここでも、九野の“嘘”から見えてくるものに、辻原が直面していきます。TVerなどで観られると思うので、これくらいにしておきますが、僕が一つ感心したのは、キャスティングで、あるいは脚本家が最初から本木と阿部をイメージしたのかもしれませんが、見事なはまり役でした。

【もう一つ「伝える」をめぐって】

・このドラマが僕の心に響いたのは、たまたま数日前に、喜田清さんという方の『名ぐはし島の詩(うた)~長島愛生園に在日朝鮮人・韓国人を訪ねて~』(海声社、1987)という本を読んだせいもあるかもしれません。長島愛生園というのは、言うまでもなく、岡山県のハンセン病の施設です。この本に行きついたのは、ここ何度か話題にしている斎藤隆介がらみで、いずれきちんと論文にするつもりですが、ご遺族から黒姫童話館に寄贈された原稿の中に、戦前に書かれた未発表の「岩」という作品があり、それが愛生園の在日朝鮮人を主人公にしていて、斎藤隆介の代表作でもある「八郎」の、言わば“前身”ともいえる作品なのです。

それについては、ここでは詳しく触れられませんが、この本の著者の喜田さんという方は、まったく在野の方で、後書きによれば、鉄工所勤務の傍ら聞き取りを続けられたということのようです。冒頭に引用されている患者の言葉によれば「昭和六年に、国立(ハンセン病)療養所(第一号)として設立されたここ岡山県邑久郡邑久町、長島愛生園には、現在、訳千名の在園者が療養しており、そのうち、約百名が、私たち、朝鮮人・韓国人である」ということで、あの時代を考えれば不思議はないわけですが、僕もそうでしたが、愛生園のことは知っていても、その実に一割が在日朝鮮・韓国人という事実を知る日本人は、ほとんどいないのではないでしょうか。そうした中で、言わば二重の差別に苦しんできた人たちの声を、聞き続けてきた人がいるということ自体に、感銘を受けたばかりでした。

テレビドラマに戻ると、九野から「なんで被爆者の話を集め続けるのか?」と聞かれた辻原が、「(局を辞めざるを得なかった)意地です」と答え、それもある意味本音でしょうが、この「戦後80年」という時間の中で、戦争体験を伝えようとしてきた人、自体に、光を当てることの意味を改めて考えさせられました。