「日本児童文学」の連載を読んでの感想

『日本児童文学』編集部

しばらくお休みしていた『日本児童文学』編集部ブログですが、ここから再開していきたいと思います。
再開第1号として、谷内田太郎さんに本誌で連載されていた「SF作家が児童文学について考える」(東野司)を読んでの感想を書いていただきました。
きっかけは、7月の評論研で「SF作家が児童文学について考える」が取り上げられ、私も参加したのですが、その中での谷内田の意見が興味深く、このブログ用に文章を書いていただきました。少し長い文章ですが、ぜひお読みください。

「日本児童文学」の連載を読んでの感想
東野司「SF作家が児童文学について考える」(第1回2025年1・2月号、第2回2025年3・4月号、第3回2025年5・6月号)

子どもの頃に中尾明や福島正実のSFジュブナイルを愛読していたこともあって、今回の東野氏の連載は毎回興味深く読んでいた。
「グレード」が論点となっており、中学年向けと高学年向けの区分に関して大胆な提言を行っているのであるが、その論拠になっているのが1970年の座談会での福島正実の発言である(第1回)。
福島は「これからのSFと児童文学のかかわりは、(中略)その中核に子供独自の世界へのもぐりこみ方があって、はじめて子供のほんとうのSFといえるんじゃないか。」と語る一方で次のようにも言う。「いまの小学校の五、六年から上はかなり複雑な思考もやりますし、テレビなどを通じて社会のいろいろなものを見ているのです。つまり、彼らは子供だけれど、じつは中供だと思うんです。そういう中供のかれらが少し背伸びをしなければ理解できないようなものでも問題をぶつけていかねばね。」福島の発言は、前と後で対象が違うのだが、後ろの方の発言を東野氏はこう解釈する。「ここに、福島さんが考える児童とSFの核心的関係が如実に現れています。つまりは、小五以上の児童を対象としたとき、いわゆる児童文学的「グレード」は考えなくてよいのではないか、そういう指摘です。」SFという文学形式は「無味乾燥な授業知識を、テレビのハレンチマンガを、文学作品を、だまっていてもはいってくる雑多な知識を、そしてSFを、なんのわけへだてもなく飲みこんでしまう」ような子どもの心と相性が良い。高学年以上の子どもに関してはSFをそのまま「ぶつけてい」けばよいのではないか。ただし、中学年以下の子どもに関しては、(こちらは前の方の発言である)「その中核に子供独自の世界へのもぐりこみ方が」なくては通じない。つまり大人の小説にはない独自の要素が求められるのである。
東野氏はSFと児童のこの関係を、児童文学と子どもの関係にも適用してよいのではないかと考える。「SF界と同じく、(略)「児童文学」は中学年(小三、四)以下を対象としうるもののみにして、それ以上の「グレード」は大人のいわゆる一般文学へと移行するといいのでは? と思い至ったという顛末でした。」(第3回)。
逆に言うと、児童文学の核心となるのは、大人の文学へと移行できない部分である。その部分、つまり中学年以下の文学にこそ児童文学というジャンルの持つ本来的な意味はあるのではないか。にもかかわらず、実際には中学年向けは高学年向けほど重視されておらず、書き手も少ないように見える。
そこで次のような提言がなされる。「もうこの際、思い切って、幼年から中学年向けを「児童文学」のメインとしては、どうだろうかと・・・。(略)高学年以上は。もう大人の文学を読めます。(略)ならば、今の高学年向けの書き手は、YAもふくめて児童文学という枠に留まらず、大人向けの文学として書けばよいのです。(略)その一方、中学年向け以下の、「児童文学」は、構造や展開、文体やテーマなどのこれまでの評価基準とは違う新たな独自の基準をつくり、評価すればいいのでは? と思うのです。それなら、児童文学を書きたい人は、必然的に幼年から中学年向けの作品を書くことになり、若い人が増えます。」(第2回)。
ここで重要になってくるのが「「児童文学だからこそ」という、一般文学とは異なる評価基準、選考基準」である。「子どもが読むものを大人が作るという特殊性。とくに幼年から中学年向けに対しての一般的な文学評価ではできない、子どもの眼や意識の流れにそった評価基準。そんなものがあれば、もっと幼年から中学年向けのグレード作品の評価が変わるのでは? と夢想します」(第2回)。

以上が論旨として受け取った内容で、以下がこれを受けて考えたことになる。
高学年以上はもう大人向けと一緒にしてしまったらどうかという提言は少々乱暴なので、多くの読者から種々の異論はあるだろうと思うが、ここでは立ち入らない。
ぼくにとって重要なのは中学年向けを児童文学のメインにするべきという主張であり、その評価基準を児童文学の独自性に探るべきという提言の方だからだ。この論点に関連しては、古田足日が児童SFについて書いたこと(「SFを子ども向けにすれば子どもSFができあがる、というわけではない、とぼくは思う。子どものSFでなければならない必然性を、その中に包み込むとき、その作品はすぐれたものではないか」)が引用されている(第1回)のだが、その古田は児童文学に関しても次のようなことを述べているのである。
「つまり児童文学には大きくわけて二つの傾向があり、一つは子どもから読める文学であり、斎藤、今西、また今江の『ぼんぼん』等がこれに属する。もう一つは子どもだからこそ深く没入できる文学である。これにも別に読者の上限はないが、子どもの相対的独自性と深くかかわりあっている。」(『現代児童文学を問い続けて』2011くろしお出版p107、傍線引用者)この「二つの傾向」が今回の連載における高学年向けと中学年向けの応答として読めるのだ。
「子どもから読める文学」とは、大人の小説と成り立ちは同じであるが子どもにも読めるようになっている文学である。これに対して「子どもだからこそ深く没入できる文学」ではもう同質性を前提にはできない。「子どもの相対的独自性と深くかかわりあってい」るからだ。これこそが、児童文学独自の評価基準に該当する要素だろう。
古田のこの分類は児童文学そのものの価値に即してより本質的であり、むしろグレードというものはこの「二つの傾向」を通して考えた方がよいとさえ思える。というのは、一般的に高学年向けは「子どもから読める文学」の要素を多く含み、中学年向けは「子どもだからこそ深く没入できる文学」の要素を多く含むと考えられるからだ。古田は、この「二つの傾向」を特定の作家の作品がどちらかに属するかのように書いているが、これは大まかな傾向であって、ここではこの「傾向」を内在する二つの因子のように考えたい。
例えば、古田が前者の代表としてあげた斎藤隆介であるが、『モチモチの木』(1971)では一般的な「勇気」の問題を超えて深く子どもの世界へと降りていっているように思える。豆太の感じる外界への恐怖は、「子どもだからこそ深く没入できる」要素ではないだろうか。
このことは、作家・作品という単位だけではなく、「グレード」に関しても同様に言えることだろう。中学年向けでも前者が中心となる場合はあるだろうし、高学年向けであっても子どもの独自性が前面に出た作品はあるかもしれない。おそらくは、ほとんどの児童文学作品は「二つの傾向」を同時に持つのであり、その比重が違っているだけだろう。
さて、ここで問題となってくるのが「子どもだからこそ深く没入できる文学」という因子である。自然には大人には理解しがたいそれを、どうやったら大人が何らかの基準とすることができるのだろうか。その理解のためには、子どもという存在の独自性を考えなくてはいけないのだ。古田は鳥越信の提唱した「子どもの論理」を例に挙げて「相対的独自性」という概念を提出しているのであるが、このような子どもの本質探求は現在ではあまり見られない印象である。
この種のアプローチが行いづらくなっているのは、子どもの独自性を考えること自体が子どもの本質を規定することへとつながり、そこに見いだされた特質がどのようなものであれ、子どもに適用されたとき自由を拘束する恐れがあるからではないか。つまり、子どもの独自性の探求そのものが現代社会の求める諸価値と整合的ではないのだ。
現代社会の問題への切込みが重要な現代児童文学にとって、子どもの独自性という概念は決して相性の良いものではないのだろう。児童文学が多様な現代社会の諸問題を扱えるようになったのは素晴らしいことである一方で、かつて「子どもは「小さな大人」ではない」という形で見いだされた子どもの独自性が児童文学の中心から消えつつあるのは寂しいことであり、これは一つのジレンマであろう。
児童文学独自の評価基準をつくるべきという提唱はもっともであり、賛同したい一方で、そのためには、子どもの独自性が子どもの自由を拘束しない形で考えられなくてはいけないことが分かる。これは困難な課題であるが、児童文学いうジャンルの持つ根源的な問題と言えるだろう。
2025.8.2 谷内田太郎