「加害者になるな、犠牲者になるな、そして 何より傍観者になるな」

子どもと平和の委員会

◇「加害者になるな、犠牲者になるな、そして何より傍観者になるな」(Y・バウアー博士の言葉)

ガザでは既に一万六千人以上の子どもたちが犠牲になりました。戦争が始まれば、真っ先に犠牲になるのはいつでも小さい者、弱い者たちなのです。

ソビエトのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃、イスラエルとイランの紛争。核施設への攻撃。
毎朝、信じられないようなニュースが伝わってきます。

せめて、遠い国の見知らぬ人々の苦痛に深く思いを寄せ、断じて加害者に与しないでいたい。

「正しい戦争」などというものは、ありません。

朽木祥

 

 

◇90年前、ユダヤ系ドイツ人の言語学者は日記にこんなことを書きました。

「今日ふと思った。人間の能力と非力、人間の知恵と愚かしさのあいだの溝が、今日ほど圧倒的に深まったことはかつてなかったと。 ヴィクトール・クレンペラー(『私は証言するーナチ時代の日記1933-1945年』)」

目を覆いたくなるようなニュースが毎日流れてきます。

今日、人間の知恵と愚かしさのあいだの溝は、90年前よりも深くなったのでしょうか。

わたしたちは永遠に荒れ野の道をまわりつづけるのでしょうか。

あらがう術は、関心を持ち続けること。素通りしないこと。

世界とわたしたちはつながっています。

長江優子

 

 

◇戦争は絶対にはじめてはいけない

これは戦争を経験されたすべての方の言葉です。

なのにまず犠牲になるのは弱い立場にいる命あるすべてのものたちです。

武力で守れる平和も、武力でねじ伏せる平和もありません。

始めていい戦争なんて絶対あってはならないし、始めてしまったら後戻りができなくなってしまうのです。

遠い国の話ではなく、関心を持ち続けることが大事だと思っています。

村上しいこ

 

 

◇かつて、アメリカ軍の爆撃機による機銃掃射を受けながら、岡山の水田の中を泥まみれになって這い回りながら逃げ、九死に一生を得た十代の父。

彼の娘として生まれ、30年以上の長きにわたって戦争大国アメリカで暮らす私には、子どもはいません。

アメリカに移住してから今日まで、戦争のなかった時期はほぼ「なかった」と言えます。

戦争で戦って命を落としている兵士たちも「子どもたち」です。

戦地で死ぬ大半の若い兵士の親(よりも若干上)になった私にとっては、加害者も犠牲者もどちらも「世界の子ども」です。

これ以上、子どもたちを死なせるな!すべての国の兵士を死なせるな!と、私は叫びたい。

日本の政治家たち、今こそ、平和外交に尽力せよ! 日本よ、傍観者になるな!

小手鞠るい

 

 

◇『おとなはなぜ戦争をするの』(子どもの声を聞く児童文学者の会編 新日本出版)という

本づくりに関わったことがあります。2004年、いまから21年前のことでした。イラク

戦争の時代のことです。第二次世界大戦以降の戦争を振り返ってみると「あれは、どの戦争

だったか」と、正確に時系列で思い出すのに難儀するほど、私たちの歴史は、戦争の歴史だ

と言えるでしょう。前述の本が出たときから、長い時間が流れましたが、状況は良くなるど

ころか、まるで急な坂を転げ落ちるように、悪化の一途をたどっています。私たちは、子ど

もたちから、「おとなはなぜ戦争をするの」と問われたとき、どんな答えを用意することが

できるのでしょうか。

アジア太平洋戦争敗戦から80年、「核攻撃の犠牲者であり、軍事都市としてアジア侵略

の兵站基地=加害者でもある」ひろしまに暮らし、「傍観者」にならないために声をあげる

こと、いまこそもう一度、心したいと思います。飢えや恐怖に苛まれる子どもたちがいるか

ぎり、私たちは、黙っていてはいけない。じりじりするような思いで、今年もまた、夏を迎

えます。核兵器は、絶対悪。あらゆる戦争に正義はありません。

中澤晶子

 

 

◇「戦争が殺してしまう子供の数を誰が数えられるでしょうか?戦争は子供たちをしらみつぶしに殺してしまいます。この世に生まれた者たちも。生まれるはずだった者たちも。」

『ボタン穴から見た戦争 白ロシアの子供たちの証言』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ/三浦みどり訳/岩波書店)より

 

かつてホロコーストの記録を読みながら、なぜあのとき世界は沈黙していたのかと疑問に思ったものでした。今、同じ沈黙が子どもたちを殺し続けています。

どこに生まれようとも、すべての命は平等で、殺されてよい命などひとつもないのです。子どもたちを飢えさせ、小さな手足を吹き飛ばす。

どんなに取り繕ったところで、核爆弾もミサイルも無差別殺戮でしかなく、武力と権力ばかりが幅を利かせる世界の行き着く先は、地獄でしかない。

傍観者であることは、戦争に加担することです。

 

すべての戦争に反対します。

一日も早い停戦と、平和の実現への努力を切望します。

繁内理恵

 

◇このいのちは、それぞれの人生を謳歌するためにあってほしい。

のびのび歌い、スキップし、自由におしゃべりし、好きなだれかとおいしいご飯を食べる。

ときどきけんかしても、また仲直りして笑い、ほっとして眠る。

戦争は、そういう日常を踏みにじり、奪い去る。

自由を、手足を、未来につづくはずのいのちも。

自分は今、何ができるのか。考えるたび、身がすくむ。

せめてできることは、なんだろう。

それは、書いて伝えること。語り合うこと。

過去を学び、事実に向き合い、想像力を持って、さまざまな形で。

あの子の人生を奪う権利は、だれにもない。

指田和

 

◇ 今すぐに、できることがなくても自分にできることをしよう。

でも、一体何ができるだろう。「戦争はだめ」と言ってみる。ほかには? 何かしなければと焦っている間に、時間だけがどんどん過ぎていく。

作家、石牟礼道子の著作などを通し、「悶え神(もだえがみ)」という言葉があることを知った。これは、熊本県水俣地方の言葉で、他人の不幸を自分のこととして感じ、何もできなくても、せめてその人と一緒に悶え、泣く人たちのことを言うのだそう。お金がなくとも、与えられるものは何もなくとも、人の痛みを自分の痛みとして泣くことができる「悶え神さん」たち。

日々の忙しさのなかにあり、紛争地から遠く離れていても、せめて悶え神となって、苦悶する人々に心を寄せ続けたい。

はらまさかず