163、新(あたらし)さんと和田登さんとのお別れのこと(2025,4,15)

理事長ブログ

【まずは、新さんのお宅に】

・12月のブログにも書きましたが、昨年、新冬二さんが亡くなられました。そこに書いたように、本当に協会として、また僕自身としてもお世話になったので、弔問にうかがわなくては、と思っていました。3月に行く予定だったのですが、奥様がインフルエンザに、というようなこともあって、先週(8日)、ようやく所沢のご自宅にうかがうことができました。

奥様と次女の来美さんが迎えてくださり、生前のお話をいろいろお話しいただきました。会の中で親しい方でも、ご家族とお会いする機会というのはまずないので、ご本人が亡くなられた後、初めてお連れ合いやご家族とお会いするというパターンが多いのです。

亡くなられる少し前まで、外出などもされていた由で(それだけ、急なことだったとも言えますが)、やはりそれを聞くと、良かったなと思えます。とにかく、「いい夫」「いい父親」というエピソードばかりで、新さんは我々に対してもとても穏やかで誠実な方でしたが、それと同じように、あるいはそれ以上に家庭人として満点の人だったようです。新さんは東武鉄道にお勤めでしたが、職場結婚で、奥様が出会われたのは19歳、新さんが31歳、「4年間、追いかけました」という談。ご遺骨がまだあり、「一周忌で納骨されますか?」と聞いたら、「いえ、私の時まで、このままにしておきたい」とのこと。来美さんも、一度もどなられたりしたことがなく、自ら「ファザコン」ともおっしゃいました。

・書斎も見せていただきましたが、島尾敏雄の全集があったり、児童文学以外の本が多いのが、新さんらしいなと思えました。遺稿があるということで、拝見すると、ワープロ原稿(パソコンではなくて、最後までワープロを愛用されていたようです)で、「すこしむかし、熊ノ平という駅があった」というタイトル。連作短編のようです。新さんが最後に何を書かれていたのだろう、という思いもあり、書類袋を入ったそれをお借りして、辞去しました。

【和田登さんの「お別れの会」に】

・13日(日)は、この2月に亡くなられた和田登さんの「お別れの会」が長野市でありました。和田さんは協会の名誉会員で、信州児童文学会(信州支部)の中心メンバーでもありました。僕は、「とうげの旗」文学賞の選考委員などもさせていただき、和田さんともご縁があったので、出席しました。

黒姫童話館にも行きたかったので、前日に長野に向かいましたが、その時に、新さんの遺稿を新幹線の中で読もうと、荷物に入れておきました。読み始めてびっくり、プロローグの書き出しが「長野行きの新幹線は、安中榛名駅をでるとトンネルとはいえないほどの短いトンネルを三つくぐり……」とあるのです。あまりにぴったし?の舞台設定で、内心笑ってしまいました。ただ、僕が乗ったのは、一番早い「かがやき」で、大宮から長野までノンストップ、しかも一時間でついてしまうので、半分くらいしか読めませんでした。(続きは、夜にホテルで読みました。)

・翌日、和田さんの会は、12時から。会場は、ちょうど10年前の2015年に、信州セミナーを開催したメトロポリタン長野で、この時はセミナーの翌日、和田さんの案内で、松代大本営の壕を見学しました。

松代大本営というのは、太平洋戦争の末期、戦局が危うくなった軍部が、政府機関や天皇をまるごと避難させようと、(今は長野市になっている)松代町の山に、突貫工事で大掛かりな壕を作ろうとしたもので、多くの朝鮮人労働者が動員されました。

献花式のあと、食事をしながらのお別れの会で、そこで僕はスピーチをさせていただきました。僕が協会事務局員になって3年目の1981年、下諏訪で夏のゼミナールがあったのですが、その時の全体会で信州支部の方たちが壇上に並び、「信濃の国」をうたわれたのですが、その時に当たり前のようにピアノの前に座り、伴奏されたのが和田さんで……という話から始まり、和田さんの『悲しみの砦』の話をメインにさせてもらいました。和田さんのライフワークとも言えた、上記の松代大本営を題材にした、最初の作品で、僕もこれで作家・和田登と出会いました。

・何人かが挨拶に立たれ、最後に、甥にあたる和田忠彦さんが挨拶されたのですが、その中に、安藤美紀夫さんの名前が出てきて、驚きました。忠彦さんは京都大学でイタリア文学を専攻されたということで、安藤さんの後輩になり、生前親交もあった由。NHKの「100分で名著」で「ピノッキオの冒険」を担当されたということでした。いや、いろんなご縁があるものだなと、つくづく感じさせられました。