160、アニバーサリーな一週間でした(2025,3,15)

理事長ブログ

【なんとか、秋田に】

・前回、「秋田に行く」という話を書いたわけですが、翌日の6日、東北新幹線の事故で、秋田新幹線が動かなくなりました。東北新幹線と秋田新幹線の連結部分が事故ったわけです。この「連結」というのは、東海道新幹線にしか乗らない方には、よくわからないかもしれません。

秋田新幹線と山形新幹線は、いわゆる「ミニ新幹線」で、何がミニかというと、車両の幅が狭いのです。東海道新幹線や東北新幹線などは横に座席が5人分並んでいますが、ミニ新幹線は4人、つまり在来線の特急などと同じです。幅の広い新幹線を作るには、それに対応した専用の線路を作らなければいけないわけですが、それはとてもお金がかかることで、秋田新幹線や山形新幹線は、従来の線路を使って(補強工事などは必要ですが)走っているのです。

・秋田新幹線の場合、盛岡までは、東北新幹線のはやぶさややまびこと、秋田行きのこまちが一緒に走ります。「一緒に」ということは、つまり幅の違う二つのタイプの新幹線を連結させるわけです(線路は当然二重になっていることになります。)そして、盛岡からは、これを切り離して、こまちだけが在来線の田沢湖線(大曲まで)と奥羽本線(大曲から秋田市まで)の線路を走ります。ですから、盛岡からは、新幹線とはいえ、ぐっと速度が落ちます。

・今回、その連結部分が不具合だったわけで、秋田新幹線は秋田と盛岡間しか走らなくなりました(今日のニュースで、連結が再開されたようですが)。ですから、秋田に行くには、まず東北新幹線で盛岡まで行って、乗り換えなければならないわけです。それはいいとしても、僕は事故の次の日の7日に発つ予定でしたから(こまちに乗るつもりだった人たちが、どっと東北新幹線の切符を求めることになるわけで)、盛岡までの切符を取るのは無理かなと思いました。それでも、とにかく、少しの可能性を求めて、川越駅(そこから大宮に向かいます)に行ってみたところ、ちょっと感動?したのですが、駅員さんがとても熱心に空いている席を探してくれて、行きも帰りも、東北新幹線の切符を取ることができました。ただ、1時頃に発って5時頃には着く予定が、4時に発って、ようやく9時半過ぎに秋田に到着でした。(前のブログに「雪景色が楽しみ」と書きましたが、もうほとんど消えていて、その点はいささか拍子抜けでした。)

・そして、次の日、予定通り、あきた文学資料館で、9月からの斎藤隆介展についての打ち合わせができました。細かい点はまだこれからですが、もう「今年」のことですから、僕としては“いよいよ”という感じです。

【そして、古田さんのお墓参りに】

・8日は、大仙市の実家に泊まり、9日に、まずまず無事に埼玉に戻りました。そして、一日おいた11日、古田足日さんのお墓参りに行ってきました。これは、たまたま時期が重なったわけですが、古田さんが山口の県立女子大に赴任していた時のお知り合いが、東京においでになった折に古田さんのお墓参りをしたいということで、僕ら(佐藤宗子さん、宮川健郎さん、西山利佳さんと僕。そして古田さんの蔵書を引き取り、古田足日研究を大学として位置づけてくれた白梅学園の先生お二人)も、言わばご相伴で、お墓参りに行くことにしたわけです。古田さんは2014年に亡くなられたので、もう10年以上経ちますが、これまで機会がありませんでした。

・古田さんのお墓があるのは、西多摩霊園で、僕は初めて行きましたが、首都圏で一番広い墓地公園ということでした。JR青梅線の福生という駅から霊園の送迎バスで行くのですが、確かに広い。というか、山全体が墓地になっている、という感じでした。ですから、中を歩いていく、というのではなく、園内を回るバスに乗って、目的のエリアに行くというパターンなのです。

ただ、その“停留所”に降りてからも、なかなかたどり着けませんでしたが、なんとか古田さんのお墓を見つけることができました。背の低い方の墓石で、正面に「芳草を求めて来たり 落花を追うて去る」という漢詩(のようです)が刻まれ、脇の二つの花台には、古田さんのトレードマークともいえるホタルブクロが白く描かれていました。右隣が、古田さんのお兄さんで、東大の先生(国語学)でいらした古田東朔先生のお墓で、古田さんの前年に亡くなられたのですね。ご兄弟が並んで眠られているご様子でした。

・僕は、大学一年の時に斎藤隆介の「八郎」を読んで児童文学にはまり、その後、古田足日の評論と創作を読んで、自分も書きたいと思った人間ですから、この一週間は、僕を今の仕事にひきずりこんだ?二人との、なんというか、誠にアニバーサリーな時間を過ごしたわけでした。