158、映画の話(2025,2,25)
【まずは、「ドクトル・ジバゴ」のこと】
・僕は、昼食は大体1時過ぎという場合が多いのですが、家にいてテレビをつける時は、NHKBSに合わせることが多いです。1時から映画が放送されるからです。1時40分からテレ東でも映画をやるので、そちらにする場合もあります。
一昨日、1時半近くになっていたと思いますが、BSをつけたら、見覚えのあるシーンが出てきました。「ドクトル・ジバゴ」でした。新聞のテレビ欄をチェックすることもありますが、この日はそれをせず、テレビをつけたら、そういうことになったわけです。
・この映画は1965年ですから、僕が高校1年の時です。この映画には結構思い出があるのです。というか、かなり感動して2回観ました。そんなことをしたのは、この時ぐらいだったと思います。
当時、僕は秋田市内の高校に入っていて、家から通うのは遠かったので、1、2年生の時は、短大生の姉とアパート暮らしでした。最初姉と見に行って、その後自分だけで行ったような気もします。
「ドクトル・ジバゴ」は、ソビエトの作家パステルナークの作品で、ノーベル文学賞を受賞したものの、その内容が反革命的?であるとしてソビエト国内では発禁になるなど、話題を集めていました。(ですから、これはソビエトの映画ではなく、イギリス、アメリカなどの共同制作だったと思います。)そのことを僕は知っていて、それもひとつこの映画を観たいと思った理由かもしれません。あと、映画音楽の「ララのテーマ」というのが映画に先行してヒットしといて、それにも惹かれました。
・そんなに映画少年でもなかった僕が、もう一度観たいと思うほどこの映画に惹かれたのは、ひとつには映像の美しさということもありましたが、主人公のジバゴをめぐる二人の女性との相関関係に、やはり惹かれたように思います。これは、今振り返ってそう思うのではなく、高校一年の僕が、「(道徳的には良くないのだろうけど)二人の女性に惹かれる主人公の気持ちはわかるな」と思ってしまった(笑)ことを覚えているからです。ちなみに、ララではないもう一人(こちらは確か結婚相手)は、チャップリンの娘で、その一途さも印象的でした。
で、僕がもう一度映画を観ようと思ったのには、実はもう一つ理由があり、「映画の感想文」というのを募集していたからです。それで2度観て、確か感想文を書いて応募したような気がします。結構自信があったのですが(高校生の応募などそんなにないだろうという読みもあり)、結局なしのつぶててした。
この時、もし入選でもしていたら、児童文学評論家ではなくて、映画評論家になっていたかも……、などという夢想と共に、久しぶりに「ドクトル・ジバゴ」を観たわけでした。
【映画といえば……】
・上記のように、僕はそんなに映画少年というわけではありませんでしたが、やはり世代的に、それなりに映画に親しんだとは言えます。生まれ、育った小さな町にも、歩いて7、8分ほど(田んぼを突っ切れば3、4分)の所に映画館があり、封切館ではないので、東映の時代劇がメインでしたが、他の映画会社のものも放映していたように思います。「三本立て30円」でした。一日の小遣いが10円でしたから、三日間辛抱すれば映画が観られたわけです。定かではありませんが、放映は土日に限られていたかもしれません。放映時間が近づくと、映画館のスピーカーから音楽が流れ(三橋美智也の歌とか)、上記のようにすぐ近くですから、よく聞こえてきました。
僕が好きだったのは、というか、観られるのが主に時代劇だったわけですが、中村錦之助(後の萬屋錦之助)、東千代之介といったスター俳優よりも、大友柳太郎といった名脇役という感じの人が好きで、意外に渋好みだったかもしれません。これは前に書いたような気もしますが、初めて観た洋画は、これは隣の大きな町の大曲(花火で有名な)の映画館で、兄に連れられて行ったように思います。「80日間世界一周」という名画で、今調べたら日本公開が1957年ですから、僕は小学校2年生ですね。これは鮮烈な思い出で、そのワンシーンは今でも思い出せます。
・さて、映画と言えば、那須正幹さんは、世代的にも映画全盛の時に、子ども時代、青年時代を送っているわけで、ご自宅にはかなりの数のDVDが残されていました。いま、協会のホームページの「那須正幹記念室」の「企画展示」のコーナーでは、(大分前からですが)その残されたDVDを手掛かりに、中野幸隆さんに「那須正幹と映画」を論じてもらっています。映画は、那須さんの作品にも、かなり影響を与えていると思います。
この企画展示、もう少しすると、先に紹介した那須さんの新作の絵本のことに切り替わりますので、まだご覧になっていない方は、ぜひご覧ください(その後もバックナンバーで見られますが)。