152、古世古和子さんのこと(2024,12,26)

理事長ブログ

【前回に続いて】

・クリスマスも過ぎ、いよいよ年越しまでカウントダウンになりました。(クリスマスのせいではありませんが、いろいろあり、今回も一日遅れになりました。)そんな折、前回に続いて「追悼文」になってしまうのですが、やはり協会で長く理事を務められた古世古和子さんが亡くなられたとのお報せがありました。12月10日に亡くなられたということですが、95歳でした。

・「古世古」という姓はとても珍しいと思いますが、ご本名(というか、旧姓)で、結婚後の「本名」も「椚(くぬぎ)和子」さんというので、こちらもあまり聞いたことのない苗字です。古世古さんは、三重県志摩のご出身で、そういえばマラソンの「瀬古」選手も三重県出身ですね。あちらに由来する苗字なのでしょうか。ただ、古世古さんは育ったのは満州で、満州を舞台にした作品がいくつかあります。一つ挙げるとすれば、『八月の最終列車』でしょうか。日本の敗戦の時に、民間人を保護すべき軍隊が、真っ先に逃げ出したことが告発されています。

・僕が協会の事務局に入った1979年、そして80年代あたりは、まだ(と言うべきか)、理事は圧倒的に男性が多い時代でした。ちなみに、75周年記念資料集の歴代役員名簿を見てみると(こういう時、本当に便利!)、78・79年度では、26人の理事のうち、女性は赤木由子さんと早船ちよさんのみ。でも、僕は早船さん(吉永小百合主演で映画になった『キューポラのある街』の作者)が理事会に出てきたことはまったく覚えていないので、やや“名目的”理事だったのでしょうか。次の80・81年度で、赤木さんと古世古さん、そしてもうお一人坂本伊都子さんのお名前があり、これでもようやく3人です。もう少しさかのぼると、74・75年度、そして76・77年度の理事名簿にも古世古さんのお名前がありますから、僕が事務局に入った時は、たまたま何かの事情で理事を降りられていたのでしょう。もちろん、その前にもいぬいとみこさんとか、松谷みよ子さんとか、女性の理事がまったくいなかったわけではありませんが、僕の印象としては、実際の“働き手”としての女性理事というのは、古世古さんと赤木由子さんが“草分け”だったといえるように思います。そういえば、赤木さんも満州育ちですね。これは、偶然でしょうか?

【思い出すこと、いくつか】

・古世古さんは、教員出身の作家で、教員を辞めて事務局員になった僕からは、そういう意味でも親近感がありましたが、いくつか思い出すことがあります。実は、『日本児童文学』の編集長は、この四年間、奥山恵さんでしたし、西山利佳さんなども務められましたが、上記のように、もともと女性の理事がとても少なかったわけで、最初の女性の編集長はきどのりこさんで(文溪堂から出ていた月刊時代ですが)、1994年のことです。1946年の創刊から、50年近く経って、ようやく初の女性編集長が実現したわけです。

実は、その「初の女性編集長」の栄誉(?)は、古世古さんが担うべきものでした。きどさんの6年前の88年、古世古さんが機関誌部長(編集長)に選出されたのです。ところが、実際の仕事が始まる前ころだったと思いますが、オートバイをはねられて、重傷を負い、入院されました。とりあえず、当時の関英雄理事長が編集長代行を務めましたが、回復にはしばらく時間がかかりそうということで、確か浜野卓也さんが、代わって編集長になりました。つまり、古世古編集長は“幻”に終わったわけです。古世古さんご自身も、残念だったでしょう。

・全然別のことですが、1929(昭和4)年11月生まれの古世古さんは、敗戦時15歳ということになります。上記のように、満州にいて引き揚げてきたわけですが、その際、ソ連兵が町の中に入ってき、かなり怖い思いをされたようです。なんの時だったか、「だから、私、結婚した後も、なんとなく男の人が怖かったのよ」とつぷやかれたことを、普段の古世古さんからは想像しにくい台詞だったので、覚えています。そのご結婚相手(椚さん)は、確か高校の社会科の先生で(やや不確かです)、退職された後だと思いますが、八王子の市長選挙に(確か革新統一で)立候補されたことがあります。残念ながら、当選には至らなかったのですが、その後、古世古さんがおかしそうに、「近所の酒屋が、お酒の樽をもって陣中見舞いに来たのよ。まちがって当選したら、よろしくってことなのかしらねえ」(もちろん台詞はうろ覚えですが)といって、笑って話してくれたことも思い出します。

活動的、という言葉がありますが、まさにそういう書き手でした。前回の新さんと言い、古世古さんとといい、いろんな方たちに、協会が、そして僕自身も、支えられてきたのだなあと、今改めて感じています。皆様、どうぞ、良いお年を。