152、新冬二さんのこと(2024,12,15)
【喪中ハガキで】
・今年も、あと半月となりました。例年のことながら、何枚かの喪中ハガキをいただきましたが(今年は、僕も出しましたが)、中に差出人が古川さんというのがあり、「はて? そういう知人がいたっけ?」と思ったわけですが、文面に「夫 新冬二が七月一日に九十四歳で永眠いたしました」とあり、新さんの奥様からのお報せとわかりました。新さんのご本名は「古川和夫」さんで、「古い」をひっくり返して「新(あたらし)」をペンネームにされたわけです。
僕が50年余りの児童文学者協会との関りの中で、事務局の仕事の上で一番お世話になったと言えるのは、木暮正夫さんと、そして新さんだったように思います。
・木暮さんは、僕が事務局員になった時の事務局長で、僕が事務局長になってからは理事長という関係で、言わば“日常的”にお世話になりました。これは前にも書いたように思いますが、僕が長く事務局の仕事を続けられたのは、木暮さんという理解者がいたからこそと思っています。
それに対して、というのも変ですが、新さんは二つの大きな“できごと”を通じて、お世話になったというか、救われたというか、いずれも新さんがいてくれて、乗り切れたということが、ありました。
・一つは、ちょうど1990年代から2000年代に切り替わる頃ですから、20年余り前になりますが、児童文学の世界で、この前亡くなられた谷川俊太郎さんや、岩崎京子さん、松谷みよ子さん、今西祐行さんなどが、学校で使われるテスト教材に使われる作品の著作権をめぐって、裁判を起こすという“大事件”がありました。
この時の経緯を書くと相当長くなってしまいますが、そうした裁判の一方で、著作者側と教材を発行している出版社の団体との間の交渉が始まりました。著作者側の代表は、児童文学者協会からと児童文芸家協会から二人ずつ、そして、どちらにも加入していない著作者として、寺村輝夫さんと童謡詩人のこわせたまみさんに加わっていただきました。で、児童文学者協会からの二人というのが、事務局長だった僕と、当時著作権部長だった新さんでした。裁判が行われているのに、一方でその相手方と交渉を進めるというのは、あまりないことだと思いますが、僕は、こういう時こそ著作者の団体である協会自体が前面に立って解決を図るべきだという、強い思いがありました。とはいえ、上記のように、松谷さん、岩崎さん、今西さんといった、協会の大先輩たちが相手方と裁判で争っているわけですから、僕の立場はなかなか微妙でもありました。その時に支えてくれたのが新さんで、精神的にどれだけ救われたかわかりません。幸い、裁判も勝訴になり、また交渉の方もまずまず順調に進んで、この時にできた協定によって、その後、テスト教材の著作権の処理は、スムースに進められています。皆さんの作品を使いたいという教材会社からの連絡があった際には、そうした〈歴史〉があるのだと思い出していただければ幸いです。
【法人制度の変更の際にも】
・もう一つ、新さんに、これはもう全面的にお世話になったのは、公益法人をめぐる法律が改正され、それまで「社団法人」だった協会が、「公益社団法人」になるか「一般社団法人」になるかという選択を迫られた時です。今から十数年前のことですから、この時新さんはもう80歳くらいになられていたはずです。協会の仕事の中身から言えば公益社団になることも可能とはいえ、その場合の事務的負担があまりに大きく、結局一般社団を選んだわけですが、いずれにせよ、新しい定款を作らなければなりません。その新しい定款をほぼお一人で作られたのが新さんでした。
新さんは、東武鉄道系の会社に長くお勤めで、協会の役員の中ではきわめて例外的(?)に、法律にもとづく書類関係に詳しい方でした。新さんと二人で、説明会に行ったり、行政書士の所に行ったり、二人でお酒も何度か飲みました。1929年生まれですから、僕より20歳年上なのですが、そういう“圧”を感じさせない、本当に穏やかで誠実な方でした。
新さん、本当にお世話になりました。ご冥福を祈るばかりです。