奥能登報告 指田和さん

子どもと平和の委員会

奥能登報告

10月末、石川県へ出かけてきた。金沢市内の安原小学校で一日ヒロシマや震災の話をする機会があり、翌日からレンタカーで一路、奥能登へ。
能登半島地震や奥能登豪雨災害に際して、何もできないもどかしさがあった。この機会にせめて現地の状況を見ておきたい、どんなことでもできることがあればしたい……そんな思いだった。
細い縁をたぐって知人の知人(珠洲市在住)につながり、現地で会うことを目的に3日間。幸い安原小学校から珠洲の小学校に声をかけていただき、初日に短時間の訪問も叶うことに。念のため、スーツケースには丈の短い長靴と軍手をしのばせた。
復旧工事が続く〈のと里山海道〉は、途中から蛇行や凸凹が続く。ハンドルを握る手に汗をかきながらの片道3時間ドライブだった。
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なんとかたどり着いた内浦・飯田湾に面する珠洲市立上戸小学校は、児童数25人。
同校は地震から3ヶ月半ほど地域の避難所になり、一時は住民の借り暮らしと子どもたちの学校生活が重なった期間もあったとのこと。その後、校庭に仮設住宅が設置されるも、九月の豪雨ではこの仮設が床上浸水の被害を受けた。(学校だより「せんだん」や校長先生のお話による)
この日のメイン交流はお昼過ぎの約20分。寄贈用に数冊の絵本、応援メッセージ色紙等持参し、「絵本作家・指田和さんの上戸小学校応援訪問〈絵本の朗読と本の寄贈〉」としていただいた。
見晴らしの良い3階の教室であいさつを交わし、拙著『はしれ、上へ! つなみてんでんこ』を朗読。子どもたちの感想や歌のお返しの後、交流は終了した。

実際はあっという間だったはずなのに、この20分のなんと長く感じられたことか……。
理由は、朗読した絵本にあった。
校長先生からは事前に、「うちの子どもたちはだいじょうぶですから、ぜひ読んでださい」と言われていたものの、考えてみれば、ここは直近で甚大な災害を二度も体験し、校庭に仮設住宅が並ぶ地(学校)だ。東日本大震災時の、大津波から避難する切羽詰まった小中学生を描いた絵本を読んで大丈夫だろうか? 自分たちの被災体験を重ねて、不安にならないだろうか?
いや、この場に及んでジタバタは禁物。覚悟を決めたものの、必死だった。
朗読中、子どもたちの視線が真っ直ぐ絵本に向いていることがわかってホッとしたものの、この時ほど、「楽しい元気の出る本、心があったかくなる本を自分も持っていたい。子どもたちに読んであげたい」と思ったことはなかった。

読後はフラフラだったが、思わぬ元気をもらったのは直後の歌のプレゼントだった。
「Believe」(作詞作曲・杉本竜一)
たとえばきみが傷ついて
くじけそうになった時は
必ずぼくがそばにいて
ささえてあげるよ その肩を(一部抜粋)

子どもたちと先生方が声を合わせ、教室が割れんばかりの大合唱。
打ち合わせ時の校長先生のことばーー「中には校庭の仮説住宅から学校に通っている子もいるんですよ」ーーが頭を過ぎったとたん、わたしは思わず込み上げてしまった。
(みんな大変なのに。なんだ、応援されているのはわたしの方じゃないか……)

でも、これには後日談有ーー。
職員室に戻って校長先生がおっしゃるには、実は明日、市民ホールで〈珠洲市小学校 音楽の集い〉があり、市内全校が集まってBelieveを斉唱する予定が。
「校長会で〈珠洲でも、みんなでなんかせんと〉と言う声が上がりまして。今日はその予行練習のようになってしまいました、すみません……」
一瞬、キョトン。
「いえ、そんな……十分すぎるプレゼントで……(笑)」
そんなわけ? で、翌日はわたしも急きょ市民ホールへ。9校約260人の小学生が一同に介し、「どんなことがあっても未来を信じている」と歌い上げる姿は、感動的なひと時だった。

それにしてもあの朗読を思い出すと、わたしは冷や汗が出る。救いは唯一、あとで若い先生がかけてくれたこんなことばだった。(いや、投げかけられたボールかも)
「お正月の地震の時、ここの子たちもみんなすぐに家族と裏のお寺(山)へ走って逃げたんですよ。あとで本人たちから聞きました。
実はわたし、毎年3月11日が近づくと、あの絵本を必ず子どもたちに読んであげていたんです。それも、みんなの心に入っていたんじゃないかな、と」
でもその先生の絵本は、今も半壊した家の下敷きになったままだ……。
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半島東部の飯田湾に面する珠洲市や能登町では、地震後、広範囲にわたって津波が押し寄せた。被害の大きかった宝立町(珠洲市内、上戸小学校から数キロ南)では津波高が4メートル以上に。今回車で回っても、崩れた家、1階も2階も吹き抜けのようになった家、玄関や窓を青いビニールシートで覆った家がまだたくさんあった。人気もない。解体工事は進むものの、地震から10ヶ月が経ってもこの状況にはことばがなかった。
外浦側の大谷地区は地震の際に地盤が隆起し、津波は避けられたものの港は使えない状況に。9月の豪雨被害は報道の通りだ。(今も土砂や壊れた建物等の片付けが続き、公民館前には自衛隊設置の住民用仮説風呂やシャワーのテントがあった)
人口約1万900人(2024年9月現在)、高齢化率50%を超える珠洲市。今後の復興やまちづくりはどうなるのか、子どもたちのこれからは? いや、これは決して他人事じゃないぞ…… 道々、そんなことを何度も思った。

とはいえ、三方を海に囲まれ自然豊かな珠洲。高台から外浦を望めば海空は青く穏やかで、本当に美しかった。二日間車で案内してくれた初対面の知人・浅田久美さんとはため息をついたり驚いたりの連続だったが、二人で現況を見られたことは心強く貴重な時間だった。
余談だが、浅田さんはわたしと同世代で岩手県釜石市出身(わたしとは釜石つながり)。日本のウェイトリフティング女子の草分け選手で、アテネ・北京オリンピックでは同種目の女子日本代表監督を務めた人でもある。現在は珠洲でお連れ合いとSUZU DREAM CLUBを主催し、小学生〜一般までを指導。実は東日本大震災時には釜石の親戚を亡くされ、その経験から珠洲市の危機管理室・防災支援員も務めた。今も岩手と珠洲を様々に繋ぎ、活躍している。(今回の災害では浅田さん宅はほぼ無事だった)

ドライブ中、わたしはその浅田さんのことばに何度もハッとさせられた。
一度は先の宝立町で。わたしは倒壊家屋にカメラを向けたものの、なかなかシャッターが切れないでいたのだ。
「写真、撮って良いのかな……」
つぶやくわたしに、浅田さんはきっぱり言った。
「いいんじゃない? だって、ふざけて撮るわけじゃないんだもの。ちゃんと撮って今の珠洲の状況を他の人にしっかり伝えるためにやるんだから」
またウェイトクラブで、子どもたちのトレーニング風景を見せてもらっている時のひと言も忘れられない。
「壊れた家のお手伝いとか、わたしもなかなかできてないのよ……。でも今わたしができることって、やっぱりウェイトかな、って。ここの子たちもそれぞれ震災の影響を受けてて、家族を亡くした子もいてね。だから今はとにかく、普通に練習ができる日常・状況をしっかり作ってあげることかな、って」
ーー1、2、3 はい、オーケー! 次わたし!ーー練習場に響く、元気なかけ声や笑い声。
浅田さんは、こう続けた。
「それと、この子達がウェイトでがんばって大きな大会で優勝する姿を、地元のじいちゃんばあちゃんたちに見せて喜んでもらう、元気を出してもらうってことかな」
正面の壁には大きな文字で、「珠洲から世界へ、珠洲からオリンピックへ!」の垂幕があった。
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結局、現地で長靴や軍手を出すことは一度もなかった。
あれから約3週間。
少し体調不良もあって、わたしの中ではまだあの三日間が整理できていないのだけれど、それでもつらつら思うのはこんなことだ。
ーー不安はあったけれど、自分の目で現地を見られてやっぱり良かった。応援訪問が、むしろ先方に励まされる旅になってしまったな。でもおかげで、石川や奥能登がすごく身近な土地になった……。そしてもう一つ、自分の役割・持ち場について。うまく書けない、筆が遅いと悩みはあっても、それでもわたしにはペンやカメラ、文章があるじゃないか。それを自分で信じないでどうする?

あの子どもたちの歌声に、わたしたち大人はしっかり応えていかなければいけないと思っている。