平和を考えるために今子どもたちに手渡したい本 第三回 小手鞠るいさん
戦争を知らない娘と戦争を知っている父の合作
—–『川滝少年のスケッチブック』
小手鞠るい
わたしの父は1931年(昭和6年)11月20日に生まれました。この日よりほぼ2ヶ月前の9月18日、日本軍は満州を武力で占領するために、みずから満州鉄道を爆破し、この行為を中国の仕業であったとして、総攻撃を開始しています。いわゆる満州事変。つまり父の子ども時代は丸ごと、アジア・太平洋戦争の日々と重なっているわけです。
娘のわたしは1956年(昭和31年)3月17日に生まれました。この年の12月には、国連総会が日本の国連への加盟を承認しています。「もはや戦後ではない」「一億総白痴」という言葉が流行した年でもあります。好景気に浮かれている日本人は全員「白痴である」と発言したのは、大宅壮一でした。
平和の大切さを語るために、わたしが子どもたちに手渡したい一冊。それは『川滝少年のスケッチブック』(小手鞠るい著 講談社 小学生から大人まで)です。推薦図書の筆頭に自著を挙げるなんて、なんて厚かましいのでしょう。なんて図々しい。そんなことは重々わかっています。わかっていながらも、それでもこの本を、わたしは「読んで読んで、絶対に読んで」と、子どもたちに差し出したいし、大人たちにもすすめたい。声を大にして、声を限りに「川滝少年の戦争体験を、あなたも疑似体験してみて」と。
『川滝少年のスケッチブック』は、アジア・太平洋戦争を生き抜いて、生き延びた父の体験を描いた作品です。正確に言うと、父が描いた漫画に、わたしが物語を書きました。漫画はノンフィクションで、物語はフィクション。父と娘の合作です。戦争を描いた作品は無数にありますが、戦争を知らない娘と、知っている父のコラボ作なんて、なかなか珍しいのではないでしょうか。
昭和天皇を神様であると信じて、その人のためなら死んでもいいと考えていた軍国少年。中学生時代、通学列車に乗っていたとき、アメリカ軍の爆撃機から空襲を受けて列車から飛び降り、田植えの終わったばかりの水田の泥の中を這いずり回って、九死に一生を得た父。敗戦と同時に、白かったはずの烏(神様)が本当は真っ黒だった(人間)と知った父。どんなにショックだったことでしょう。父の漫画には、天皇の敗戦宣言は「驚天動地の出来事だった」と書かれています。
そんな父は現在93歳。今ではすっかりアメリカのファンです。アメリカが好きで好きでたまらないようです。同い歳の母も同じです。「おまえらは、日本へ戻ってくるな。死ぬまでずっとアメリカにおれ。骨はアメリカに埋めろ」と、母は事あるごとに言っています。「おまえら」とはわたしと夫のことで、「戻ってくるな」は日本への永住帰国はするな、という意味です。
もしかしたら、日本ではタブーになっているのかもしれませんが、うちの両親は戦争を語るときにはまっこうから、昭和天皇を批判していました。母曰く「みんな、あの人のために無駄に死んでいったんよ。死ぬ前に『天皇陛下万歳』なんて、誰が言うもんか。ほんまはな、みんな、死にたくない、お母ちゃん、助けてー言うて、死んでいったんじゃ」と、戦争を美化しているような文学を読んだり、映画を観たりするたびに、毒舌を吐いていましたっけ。父は父で「源氏物語は好かん。天皇一家の痴話が日本文学の代表作じゃなんて、情けない」などと言っていましたっけ。
このあたりの話については『川滝少年のスケッチブック』の兄編に当たる『つい昨日のできごと』(自著 平凡社 エッセイ)に詳しく書きましたので、ご興味を抱いて下さった方、ぜひ、読んで下さい。この本にも、父の漫画を満載してあります。川滝少年は長じて、左翼の過激派青年となりましたが、その後、母と大恋愛をして結婚し、平凡な小市民となり、わたしが生まれています。
閑話休題。わたしが父の漫画の中で、最も目を見張ったのは、マッカーサーと昭和天皇のツーショットです。1945年9月の新聞に掲載された写真を、父は漫画で再現しています。直立不動で緊張感いっぱいの天皇の隣に、余裕たっぷりなリラックスした雰囲気で立っているマッカーサー。父が天皇の顔を見たのは、これが初めてだったといいます。このこと自体に、わたしは大いに驚きました。父は、顔を見たこともない人(=神様)のために、死んでもいいと思っていたのですから。戦争って、本当に怖いなと思います。そして「これからは、マッカーサーが天皇の上に君臨して、日本を支配するのだ」と、父はその写真を見て震撼しました。打ちのめされ、震えながらも、それでも日本軍よりはましだろうと、父も母も思っていたはずです。マッカーサーは当時、何よりも日本が共産主義国家になることを恐れていたようです。それを食い止めるためには、天皇制を残しておかなくてはならないと思ったのでしょう。ちなみに父は、マッカーサーがアメリカに帰国したのち、アメリカ議会で「日本人の成熟度は12歳。勝者にへつらう傾向あり」と証言したことに、非常にがっかりしています。でも、このマッカーサーの分析は、まんざら外れていなかったのではないか。「成熟度は12歳」と「一億総白痴」は、同義語ではないでしょうか。
子どもたちに向かって書かれた戦争の本に、ほとんど出てこない話題として「天皇の戦争責任」があるように、わたしには思えてなりません。とはいえ、不勉強なわたしなので、もしかしたら、わたしが知らないだけで、実際には教科書や教室でちゃんと教えられているのかもしれませんね。もしもそうであるならば、ぜひその実態をわたしに教えて下さい。それをわたしから両親に教えてあげたい。広島に原爆が投下された直後に、天皇がポツダム宣言を受け入れるよう軍部を説得していれば、少なくとも長崎の方々だけでも救われていたのではないかと、両親はよくこぼしていました。
戦争の悲惨さばかりを感情的に語っても、戦争をなくすことはできません。戦争はなぜ、起こるのか。誰が、なんのために、起こしているのか。「戦争株式会社」の存在を語らずして、戦争は語れません。日本の高度成長期が可能になったのは、朝鮮戦争で、のちにはヴェトナム戦争でも、アメリカ軍が必要としていた武器を、日本の有名な企業がせっせと造り続けてきたからです。武器製造によって、お金を儲け続けてきたからです。平和憲法で戦争を放棄しているはずの日本が、自衛隊という精鋭の軍隊を有し、今もせっせと武器を製造し続けているという現状を、きちんと子どもたちに教えなくてはならない、と思っているのは、わたしだけでしょうか。
さらに言ってしまえば、毎年8月に戦没者の霊に祈りを捧げるときには、同時に、中国大陸、朝鮮半島、東南アジアなどで、日本軍の犠牲となった人たちにも追悼と謝罪の祈りを捧げなくてはならないと、わたしは思っています。日本軍による南京虐殺はヴェトナム戦争のお手本になりましたし、特攻隊の自殺攻撃は自爆テロを生み出す一因になりました。日本の子どもたちには戦争責任はありませんが、国家は謝罪し続けなくてはならないと思うし、どんなに謝罪しても足りないだけのことを日本はしたのだとわたしは認識しています。無論、このような戦争観を他人に押し付けるつもりは毛頭ありませんけれど。
たまたま、今、読んでいる本『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(後藤正治著 中公文庫)の解説の中にこんな記述を発見して「ああ」と、深いため息を漏らしました。茨木のり子の怒りの詩はそのまま、父と母の、消えない、消せない、怒りであるように思えました。この「怒り」を書くことは、戦争を生き延びた両親の娘として、わたしのやるべき仕事ではないか。若かった頃はまったくこんなことは思っていなかったのですが、わたしの人生の残り時間も少なくなってきた今、やっと、こんな風に思えるようになっています、というのが正しい表現です。
以下、この文庫に解説を寄稿している、わたしの大親友でもある、ノンフィクション作家の梯久美子さんが書いた文章です。その一部を引用して、筆をおきます。
戦後三十年が経った七五年、昭和天皇が記者会見で質問に答えて戦争責任について初めて語り、話題になったときには、直後にこんな詩を発表している。
戦争責任を問われて
その人は言った
そういう言葉のアヤについて
文学方面はあまり研究していないので
お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果たさねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑ぎに笑ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
(「四海波静」より)
あのとき、こんなにもあからさまな怒りを同時代の誰が作品にしたろうか。やはり本書に引用されたエッセイによれば、茨木は<野暮は承知で>この詩を<書かずにいられなかった>という。詩に限らず、こうした内容を発表する気概と勇気のある書き手が、いまどきどれだけいるだろう。
*子どもたちに手渡したい本
『ぼくは戦争は大きらい』(やなせたかし著 小学館)
『八月の光 失われた声に耳をすませて』(朽木祥著 小学館)
『平和の女神さまへ 平和ってなんですか?』(自著 講談社)
『ある晴れた夏の朝』(自著 偕成社)