139、『戦略爆撃の思想』のこと(2024,8,6)
【一日遅れになりましたが……】
・基本、5の日に更新のこのブログ、昨日は、事務局で那須正幹著作権管理委員会の会議があったりで、更新が一日遅れになり、奇しくも8月6日になりました。
今朝は、協会の倉庫アパート(アパート倉庫?)に、エアコンの交換工事の立ち合いに行ってきました。多分、これを書いている途中、工事終了の立ち合いに、もう一度行ってくることになると思います。
「倉庫アパート(アパート倉庫?)」というのは、協会の倉庫代わりに借りているアパートのことで、僕の家から自転車で10分ほどの所にあります。1Kの普通の民間アパートなのですが、ここを協会で借りたのは、1997年に『日本児童文学』が現在の自主発行体制になった時です。
その時は、雑誌をどう作るかということしか頭になかったのですが、考えてみたら、自主発行ということは、バックナンバーの保管ということも含むわけで、当然そのスペースが要ります。かつ、しまっておくだけではなく、注文があればそれに対応したりという体制も必要です。協会が倉庫を借りるのはともかく、そこに要員を置いたりということは到底無理なので、僕の自宅の近くのアパートを借りて(埼玉県の結構奥で、家賃も安いので)、倉庫代わりにすることにしたわけです。ですから、もう30年近くになります。
この前、整理に行ったら、エアコンがうまく作動せず、不動産会社に連絡して、エアコンを取り換えてもらうことにした、という次第でした。この暑さで、エアコンの業者は忙しいでしょうから、どうかなと思ったのですが、意外に早く来てもらえました。
【『戦略爆撃の思想』のこと】
・さて、話はまったく別ですが、ここ数日、『戦略爆撃の思想』という本を読み返しています。1988年刊の本で、著者は軍事評論家の前田哲男さん。(今はない)『朝日ジャーナル』に連載されたのが元ということで、版元は朝日新聞社です。
なぜ今これを読んでいるかというと、今度、8月18日に、東京・武蔵野市で、僕がかつて出した絵本『麦畑になれなかった屋根たち』についての講演をすることになっているからです。これは、1944年11月の、B29による東京初空襲を題材にした絵本で、その初空襲を受けたのが、武蔵野市の、今はグリーンパークとなっている、中島飛行機の工場でした。中島飛行機というのは、三菱重工と並ぶ戦前の二大軍用機メーカーで、中でも一番大きなエンジンの工場が、武蔵野市にあったのです。武蔵野市といっても東京以外の方はピンとこないでしょうが、吉祥寺がある街です。今は都会ですが、かつては工場の周りに麦畑が広がっていて、米軍の空襲を予期して工場の屋根に迷彩を施し、周りの麦畑と区別がつかないようにしたのです。
・この絵本は戦後50年の1995年に出したのですが、僕がこの題材に触れたのはその4、5年前だったと思います。詳しい経緯は省きますが、この絵本を書くために、結構勉強しました。というか、その“勉強”を通じて、いかに自分があの戦争のことを知らなかったのか、ということを思い知らされました。
中でも、もっとも強烈な印象を受けたのが、上記の『戦略爆撃の思想』という本でした。サブタイトルが「ゲルニカ―重慶―広島への軌跡」となっています。今回、武蔵野市での講演を前に、久しぶりに読み返しているのですが、最初に呼んだ時の“感動”を思い出すだけでなく、その後の日本や世界の状況を重ねると、この本の意味がさらに深くなっているように思いました。
・この本について詳しく語ろうとすると、かなりのスペースが要りますが、僕が最初に読んだ時にやはりもっともショックを受けたのは、サブタイトルにもある重慶のことでしょうか。重慶は中国・四川省ですが、戦時下において、日本軍に南京を占領された蒋介石の中華民国政府が、首都を移した街です。その重慶に、日本軍は、三年にわたって執拗に爆撃を繰り返し、1万人を超える死者を出しました。ゲルニカは、ピカソの絵もあって、飛行機によって民間人を虐殺した初めての本格的な空襲として有名ですが、その何倍もの規模で、1939年から41年(つまり、太平洋戦争が始まる前)まで、無差別空襲が繰り返されたのです。ちょっと長くなりますが、この分厚い本の中でも、サブタイトルの意味が分かる部分を、以下に引用して、この本の紹介にしたいと思います。
《これだけの殺戮をなすのに要した日本軍の兵力は五月三日四五機、五月四日二七機、計七二機の爆撃機と一機七人、延べ五〇四人の飛行兵にすぎない。五〇四人の日本兵は、一度も重慶の地を踏むことなく、重慶の中国人に銃を擬することも日本刀を振りかざすこともせず、はるか大空の高み―一人一人を点としても捉えられない、兵営であるのか住家なのかさえ見定めがたい場所―にわが身を置いて、使った力といえば、爆弾投下楫を引く、自動車のギア操作ほどの感触を手の内に残すだけで、二日間で五千人を上回る大殺戮を遂行したのである。(略)重慶の死者たちは、その後第二次世界大戦において数多く実行される戦略爆撃、ドレスデンと東京で極限に達し、広島・長崎では核と合体することになる都市無差別爆撃、さらに大陸間爆道弾の翼を得て全人類を組み敷くに至る核による恫喝―核抑止戦略、この長い道のりにおける、最初の組織的・意図的な犠牲者だということができた。彼らは来るべき戦争の世界、機械化され自動化される戦場、殺すものと殺される者との接点がぼやけ、加害者と被害者との関係性が消滅してしまう戦争のあり方を、すでに一九三九年の時代にあって予告していたのである。まぎれもなくそれは広島に先立つ「ヒロシマの思想」といえた。》
引用の冒頭の、5月3日、4日の空襲は、三年間にわたる重慶爆撃の皮切りにして最大の被害を生んだ空襲です。こうした歴史を知ってこそ、昨年、総会声明を出した安保三文書で示されている「敵基地攻撃能力」の危うさが見えてくるのではないでしょうか。
・最後に、18日の講演の告知をと思いましたが、チラシを見ると申し込み締め切りが8月5日になっています。武蔵野市のホームページで見られるはずです。それから、これとは別に、今週の土曜日、東京・池袋で、「子どもの本・九条の会」の集会「9条YES! 戦争NO!何度でも~過去に学び、現在を考えるための映像とトーク~」が開催されます。こちらは、協会の平和の委員会のブログをご覧ください。