岡山セミナー通信 No.8 ~坪田譲治文学賞と岡山~

組織部

日本児童文学の三大作家の一人とされる坪田譲治は、松谷みよ子、前川康男、今西祐行、大石真、寺村輝夫、あまんきみこ、宮川ひろ、といった多くの後進作家を育てました。譲治は、1956年に日本児童文学者協会会長に就任したのち、1961年に家庭文庫「びわのみ文庫」を開設して児童文学を享受できる場を作り、1963年に『びわの実学校』創刊して新人作家が発表できる機会を設けるというように、後進を育てる一連の流れを作ったといえます。

このように生前においてはもちろん、譲治は1982年に亡くなってから現在に至るまで、さらに数多くの作家を「坪田譲治文学賞」によって育て続けているといえます。2024年度に第40回を迎える「坪田譲治文学賞」の受賞作家は、まもなく40人にのぼります。江國香織、森詠、重松清、いしいしんじ、中脇初枝、をはじめ、近年では村中李衣、岩瀬成子、乗代雄介、いとうみく、宮島未奈、といった作家が続いています。

△「坪田譲治文学賞」メダル(「鳥の少年」蛭田二郎作)

 

 

その「坪田譲治文学賞」をめぐる譲治とふるさと岡山とのきずなと、「坪田譲治文学賞」を制定・運営する岡山市がめざす方向性についてご紹介したいと思います。

 

1890年、現在の岡山市内に生まれた坪田譲治は、岡山の自然と人とに親しみながら育ち、文学好きの青年となって、18歳のとき東京に出ました。大学時代から小川未明を師として小説を書き始め、1927年から鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』に童話を掲載するようになりました。

そうした譲治の小説も童話も、「書くものという書くものが、そこ(=ふるさと岡山の山川)を舞台にしないと生きて来ないような有様である」(「班馬いななく」)とみずから述べるように、岡山への深い思い入れのなかから生まれています。そのふるさと岡山への思い入れは、生涯を貫き、岡山での幼少期の体験は、79歳のときに刊行した『かっぱとドンコツ』から、83歳のときの『ねずみのいびき』(いずれも講談社)の内容に至るまで、生き生きと綴られています。

△岡山市内の生家跡地に建つ坪田譲治 心の詩碑

「心の遠きところ/花静なる/田園あり」

 

譲治89歳の1979年、岡山市は名誉市民の称号を譲治に授与しました。それから譲治が1982年に92歳で亡くなったあと、岡山市は、「岡山市文学賞」の一部門として「坪田譲治文学賞」を制定したのです。これは、譲治が小説と童話で手がけた作風にちなみ「大人も子どもも共有できる優れた作品」に与えられる賞とされました。「岡山市文学賞」のもう一つの部門「市民の童話賞」も、譲治の童話の世界につながって市民の創作活動が盛んになり市民文化が向上するようにとの願いが託されています。これらの賞制定の動きには、現・岡山県赤磐市出身の詩人永瀬清子の働きが関わっています。岡山ゆかりの作家を大切に顕彰しようとした永瀬清子は、「岡山市文学賞」の第1回から第7回までの運営委員を務めていました。

近年、行政が制定した文学賞が数少なくなってきた時代のなかで、「坪田譲治文学賞」は、岡山市長をはじめ市民や市議会の貴重な支えの力で、より深い意味を発揮しはじめています。なかでも2023年10月に、岡山市がユネスコ創造都市に〈文学〉部門で国内初の加盟認定を受けたことは、特筆すべきことでした。この申請内容には、岡山から輩出された多くの作家や文学に関わる市民活動の歴史が列挙されました。しかも、岡山市が長年継続してきた「坪田譲治文学賞」は、その核となりました。

申請の動きにつながる提言のときから関わっている私は、20数年来、譲治文学を研究しながら「岡山市文学賞」運営委員の一人として普及活動をしてきたこれまでを振り返って、感慨深く感じています。譲治が「愛情の文学」とした童話を中心に、「文学による心豊かなまちづくり」に挑戦している岡山市の皆さんを誇らしく思うとともに、ユネスコ創造都市としての岡山市の動きが、国内の各地や海外に発信し交流する機会を得ながら、文学が各地域で生きる人々の心の支えとなって豊かな生き方を波及させていく潮流となるよう願っています。

 

ノートルダム清心女子大学教授

「坪田譲治文学賞」運営委員  山根 知子