135、「テレビ(ラジオ)番組欄」はいつから?(2024,6,25)

理事長ブログ

【秋田に行ってきました】

・前にも書いたと思いますが、郷里の秋田の「あきた文学資料館」の資料収集検討委員(要するに、外部“有識者”会議)というのを、やらせてもらっています。例年、2月と6月に会議があり、今年の2月は私的な都合で欠席だったので、一年ぶりでした。僕以外は秋田の方たちで、近代文学が専門の方たちの他、詩の分野、俳句の分野の専門家がいますが、児童文学は僕一人です。

今回は、この会議に合わせて、「兄弟(姉妹)の会」を設定してもらいました。これも何度か書いたことですが、僕は六人兄弟の末っ子で、上の二人(長兄と次兄)は亡くなっています。なので、姉三人と僕というメンツですが、木曜日に岩手の一関に集まり(姉たちは前日に花巻の賢治記念館の見学)、平泉を見てきました。そして、翌日の金曜日に解散、僕はお昼過ぎに秋田市に着きました。

会議は土曜日なので、半日空いたわけですが、それを利用して調べたいことがありました。

【新聞のテレビ(ラジオ)番組欄のこと】

・それは、地元の秋田魁新報の古い紙面をチェックする、ということで、県立図書館に行けば、見られるだろうと見当をつけていました。見たいのは、1949年から50年にかけての新聞で、この頃はまだ縮刷版は作られておらず、マイクロフィルムで見る形でした。

僕は1950年3月生まれですが、自分の誕生日の頃の新聞を見たかったわけではありません。僕が児童文学の世界に引き込まれたのは、大学一年の時に、斎藤隆介の「八郎」を読んだからですが、これが書かれたのは(本になったのは1967年ですが)1950年の2月です。(以前に書きましたが、黒姫童話館に所蔵されているオリジナル原稿には、末尾に、脱稿した「2月8日」の日付が記されています。)

八郎という人物自体は八郎潟の主として伝承のキャラクターですが、斎藤隆介の「八郎」はまったくの創作です。彼のエッセイなどによれば、ラジオで伝説の「八郎」の話を聞いて、「そんなことがあるものか」と腹を立てて、自分の「八郎」を一気に書いた、ということになっています。つまり、その話が本当ならば、2月の始めか、1月あたり、早くても前年の11、12月あたりに、そのラジオ番組があったはずです。

実は、これも前に紹介した、僕に「八郎」のオリジナル原稿のことを気づかせてくれたY氏が、すでに調べているのですが、今一つ「これだ」という番組が見つからなかったのです。それで、この機会に自分でも調べてみたいと思ったわけです。

・ところが、結論から言うと、見つけることができませんでした。というより、当時の新聞には、(テレビはまだですから)「ラジオ番組欄」そのものがなかったのです。よく「新聞は、テレビ番組欄しか見ません」というような話があり(もっとも、若い世代は新聞自体を読まなくなっていますが)、僕は新聞といえば、ニュースや社説や連載小説があるように、「テレビ(ラジオ)番組欄」があるものだと思い込んでいました。もちろん今回は秋田の地方紙を見ただけですから、全国紙などがどうだったかはチェックしないといけませんが。

というわけで、目的は達せませんでしたが、新聞に昔から「テレビ(ラジオ)番組欄」があるわけではなかった、ということを学びました。

・それにしても、だったら、当時の人たちは、ラジオ番組をどうやってチェックしていたのでしょうね。

僕が子どもの頃はテレビはまだ普及しておらず、ラジオのドラマなども聞いていましたが、考えてみると、聞く番組はほぼ決まっていて(ほぼNHK)、番組表をチェックして見たい番組を調べる、というようなこと自体なかったように思います。だからこそ、番組表というのが求められてはいなかったわけでしょう。

残念なような、ひとつ発見して得したような、そんな体験でした。