110、雑誌・絵日記・あの人に会いたい(2023,7,25)

理事長ブログ

【まず、雑誌『日本児童文学』のこと】

・前回、児文芸との「理事長対談」の翌日(14日)が、理事会だったことを書きました。この機会に、まずは理事会のことを少し書きます。

理事会は、基本的に毎月開催されますが、各部・委員会合同ミーティング(隔年で、新入会員の集い)のある1月と、“夏休み”の8月はありません。それと、10年ほど前、決算が大赤字になった時以来、11月も休会にしました。一回やるとそれなりに交通費がかかるので、それを節約してのことですが、考えてみたら、リモートになったわけだから、開いてもいいのかな……。

昔は理事長もしくはそれに代わる人が毎回議長をしていましたが、今は常任理事が交代で進行を務めます。できれば2時間くらいで終わりたいのですが、3時間前後かかる場合が多いです。最初に「各部・委員会からの報告」をするのですが、協会はそれぞれの部・委員会が活発に活動していますから、それだけでも1時間はかかります。その後、入会・退会の承認、そして審議事項という流れになります。前にも書きましたが、僕か理事長になってからは、ほとんどリモートで、(上記の)交通費がかからない、遠い人も気軽に参加できるという利点はありますが、やはり対面のような意思疎通が難しいという面は否定できません。

さて、今回のメイン議題は、『日本児童文学』の普及のこと、そしてその前提となる機関誌の発行に関わる収支についてでした。今回、そのための提案書を書くために改めて驚いてしまったのですが、この機関誌が現在の発行体制、つまり協会の自主発行で発売が小峰書店、隔月刊というふうになったのが1997年ですから、もう26年が経ちました。むしろ、その前の月刊時代を知る人の方が少ないかもしれません。当時は雑誌が(「雑誌」と言ったり「機関誌」と言ったりしますが、とりあえずスルーしてください)月刊で出ていただけでなく、今とは発行体制が基本的に違っていました。編集委員会はもちろんありましたが、それは雑誌の中身について検討するだけで、それを受けての編集実務や発行業務は、すべて出版社が受け持ってくれていたわけです。

この体制(つまり、出版社が全面的に雑誌発行を引き受けていた)は、少なくとも1967年の河出書房新社の時代から、おそらく(さすがにその時期のことは、僕もよくわかりません)その前の1964年の宣協社の時代までさかのぼることができると思います。つまり創刊の1946年から20年近く自主発行的な形が続き、1960年代半ばから97年までの三十数年間は、何社か替わりましたが出版社が雑誌を発行してくれ、97年以降再び自主発行の時代に戻って26年が経過した、ということになります。

この26年間で、残念ながら、発行部数はかなり下がりました。この間、何度か理事会でも雑誌の普及について話し合いましたが、そうそう名案は出てきません。今回、その論議をする前に、そもそも機関誌の発行の収支がどうなっているのか、という点についての点検から始めました。結論から言えば、人件費を考えると別ですが、発行自体の収支では、まだ?赤字にはなっていません。ただ、黄色信号であることは確かです。いずれ、今回の論議を整理して、会員の皆さんにはご報告しますが、協会の活動の生命線ともいえる『日本児童文学』の普及や内容の検討について、みっちりと意見交換ができたことは収穫だったと思います。

【NHK「あの人に会いたい」で那須さんの声が……】

・ホームページでも予告したので、ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、NHKテレビで、先週土曜日(22日)の早朝、那須正幹さんの画像と声が流れました。僕はこの番組のことは知りませんでしたが、NHKが持っている亡くなられた方の画像と声を10分に編集して、毎週土曜日の午前5時40分から流しているのです。

内容は、おそらく4回くらいの(那須さんの50歳前後から70代までの)インタビューの、言わば “さわり”をつなげた形でしたが、児童文学作家・那須正幹の全体像がきちんと伝わってきて、さすがに見事な編集だと思いました。一番「まいったな」と感じたのは、那須さんの声で、あの独特のねばりのある声で、力説したり、演説したりという感じではなく、ちょっと“照れ”も含む感じで、「まあ、そんなもんじゃろ」という感じでのしゃべりが、まちがいなく(?)那須さんだなあ、という感じだったのです。

僕はまだ見ていませんが、さらにそのダイジェスト版がNHKのホームページで見られますので、協会のこのホームページの「お知らせ」から、ぜひアクセスしてみてください。

最後に、7月25日にちなんで、(那須さんの本ではありませんが)1冊の本を紹介します。協会はもちろん、僕のところにも、各社から新刊の見本本が届きますが、岩崎書店からの献本の中に、新刊ではなく復刊というか、新装版の本が送られてきました。1989年に出された『ぼくのじしんえにっき』(八起正道・作)という本です。

タイトルの通り、大地震が起こり、街は壊滅状態になるのですが、その顛末を小学生の男の子が絵日記の形で綴るという設定です。89年ですから、東日本大震災はもとより、阪神淡路大震災も「まだ」の時です。しかし、その二回の大震災の時、僕が真っ先に思い出したのは、この本でした。災害児童文学という分野があるならば、代表作といっていいと思います。これは今も続くSF童話賞の入選作として出版されましたが、まさに「近未来」の話だったわけです。絵はいとうひろしが担当していて、まだこの時は画家としてデビューしたてだったと思うので、これもヒットだったと思います。

で、今回改めて読み直して気がついたのですが、その震災が起こったのが、7月25日という設定だったのです。夏の話だということは記憶していました。なので、伝染病が蔓延し、絵日記を書いている〈ぼく〉も隔離されることになりますが、一命をとりとめます。なかなかに怖い本でした。

地震ももちろん怖いですが、気候変動の影響か、大雨の災害などは、もはや年中行事のようになってきました。秋田の大雨では、何人もの方から「藤田さんのご実家は大丈夫ですか」というメールなどをいただきました。僕の実家(大仙市)は特段の被害はありませんでしたが、家屋や道路はもとより、田んぼや畑の被害も後を引くだけに、危惧されます。ちょうど今NHKのテレビで、被害のひどかった五城目町(僕の大学時代の後輩のご夫妻が住んでいて、心配しました)の道の駅が再開されたというニュースを見て、良かったと思えたところでした。