4 那須正幹と映画 (前編)~那須さんと映画の〈歴史〉をたどる~
映画が大好きだった那須さんは、洋画や邦画のDVDをたくさん残しています。1930年代の旧作から2010年代に制作された作品まで、その数は400本近くにも及びます。(詳しくは、後編で)
1942生まれの那須さんの子ども時代、青春時代は、映画の全盛期でもありました。子どものころからの那須さんのそうした体験は、那須さんの創作活動にも影響を与えているように思われます。
まずは、そうした那須さんと映画の出会いの〈歴史〉をたどってみましょう。
ラジオからスタートして日本映画界の最盛期へ
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・那須さんの映画についての初期の記憶が、『ズッコケ三人組の大研究』(ポプラ社)所収の自筆年譜の中にありました。「ふたりの姉に連れられて、よく映画を観に出かけていた。最初に観た洋画は『潜水艦海の牙』。はじめてのカラー映画は『腰抜け二挺拳銃』。むろん『母紅梅』『愛染かつら』などの邦画も鑑賞」と記されています。
那須さんは三人兄弟の末っ子で、「ふたりの姉」というのは、長姉の禮子(のりこ)さんと次姉の真瑜美さん。禮子さんは13歳、真瑜美さんも9歳年上でした。大きなお姉さんたちにはさまれて映画館に向かう正幹少年の姿が目に浮かびます。次姉の真瑜美さんは、その後竹田まゆみとして、那須さんと同じ児童文学の道に進みます。
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最初に観た洋画という『潜水艦海の牙』(公開時のタイトルは『海の牙』・1947年)は、監督がフランスのルネ・クレマン、潜水艦を題材にした反戦映画です。『腰抜け二挺拳銃』(1948年)はボッブ・ホープのコミカルな演技とジェーン・ラッセルの肉体美が話題になった西部劇で、主題曲の『ボタンとリボン』も有名です。
『母紅梅』(1948年)は三益愛子主演の “母物”2作目で、このシリーズは20本以上も作られます。『愛染かつら』(1938年)は田中絹代と上原謙が演じたメロドラマで、主題曲の「旅の夜風」も大ヒットしました。この4本はいずれも制作年度から、那須さんが小学校に入学(1949年)した前後と思われますが、もちろんお姉さんたちの選択だったでしょう。
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・この時代は、テレビは普及しておらず、映画と共に、ラジオドラマが人気を集めていました。那須さんの『大あばれ山賊小太郎』(偕成社)のあとがきには「子どものころからラジオドラマの『新諸国物語』とか『銭形平次捕物控』が大好きで……」と書かれてあり、続編の『大あばれ山賊小太郎 八雲国の大合戦』のあとがきにも「子どものころには、講談というものが、けっこう人気で、ラジオ放送などでながれていました。『真田十勇士』や『天保水滸伝』『大岡政談』など、わくわくしながらきいたものです」とあります。
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こうした中でも、子ども向け番組の『新諸国物語』は、1年間で1話が完結する放送劇でした。特に第2話の『笛吹童子』と3話の『紅孔雀』が大人気となり、1954年に映画化され大ヒット。那須少年がこの映画を見逃すはずはなかったでしょう。
また、ラジオ東京の放送劇の原作でもある『銭形平次捕物控』(野村胡堂・作)は、何度も映画やTVドラマ化されています。中でも長谷川一夫が平次を演じた映画「銭形平次捕物控」シリーズは18作も制作され、ほぼ同時期の、高田浩吉の「伝七捕物帖」シリーズや嵐寛寿郎の「右門捕物帖」シリーズも人気がありました。これらの捕物映画は子どものファンも多く、那須さんの『お江戸の百太郎』や『銀太捕物帳』に少なからず影響を与えているのではないでしょうか。
また、『大あばれ山賊小太郎』の登場人物の月形剣之助の名前は、『笛吹童子』にも出演した映画俳優の月形龍之介を、風貌や出で立ちは、宮本武蔵と対決する佐々木小次郎の姿を彷彿とさせます。
古い映画と共に思い出す、少年期の世相や出来事
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・2016年1月1日の『中国新聞』の「懐かしい映画たち」と題したコラムに、那須さんは「暮れに入って古い映画のDVDをしこたま買い込み……鑑賞している。……子どもから学生のころに見たものばかり……」と書いています。古い映画を見る気になった理由は「それが封切られた当時の日本の世相や事件など……懐かしく追憶できるのである」と書かれています。また、「学校に上がる前から映画館に出かけて『にがい米』や『自転車泥棒』など、わけもわからず見ていた」ともふり返っています。
『にがい米』(1945年)はイタリアの水田地帯で働く人たちを描いた作品で、シルヴァーナ・マンガーノの肉体美が話題を呼んだ作品です。『自転車泥棒』(1948年)は戦後の困窮時代をリアルに描いた名作でイタリア・ネオリアリズムの代表作です。
中学生時代には、人喰い蟻の大群に襲われるパニック映画『黒い絨毯』(1954年)を観て、「チャールトン・ヘストンと初めて出合った」とあり、その後にヘストン主演のスペクタクル史劇の大作『十戒』(1956年) や『ベンハー』(1959年)を観て、彼のファンになったと推察されます。さすがにこのころからは、お姉さんたちとではなく、一人で、あるいは友人たちと一緒だったでしょうか。
さらに、同じころ老登山ガイドを描いた山岳映画『山』(1955年)を観て、それ以来「山登りが趣味になった」ともあります。南北戦争を背景にしたエリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトのメロドラマ『愛情の花咲く樹』(1957年)は、「高校入試の合格発表を見た帰りに」映画館で鑑賞し、「入場料が160円だった」と懐かしんでいます。
那須さんが住んでいたのは広島市内ですから、映画館もたくさんあり、邦画だけでなく、洋画も含めて、観たい映画を楽しむようになった様子が、うかがわれます。
・高校時代には、年譜で「映画も週に一回は観に行った」という那須さん。大学を出て東京でのサラリーマン生活の間も、「勤務態度はあまり良くなかった。会社を出て一日中ビリヤードをしたり、映画を観てすごす日も多く……」と年譜にあるように、映画はいつも那須さんの傍にあったようです。次の(後編)では、残されたDVDから、この後も含め、那須さんがどんな映画に親しみ、どんな映画が好みだったか、見ていくことにしたいと思います。
(文責・中野幸隆)